わたしたちの田村くん
竹宮ゆゆこ
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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)不思議《ふしぎ》ちゃん

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)松澤|小巻《こまき》

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(例)「#改ページ」
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       1

 かつては、ファーブルの再来、と騒《さわ》がれたこともあったのだ。
 小三の頃《ころ》、セミの一生を追った観察《かんさつ》日記が県の展覧会《てんらんかい》で県長|賞《しょう》を取った。そのあたりが人気のピークだったように思う。俺《おれ》は昆虫博士と呼ばれ、もてはやされ、注目の的《まと》だった。
 その輝《かがや》かしい称号を得られたのは、おそらく家庭|環境《かんきょう》のおかげだ。
 そう――田村《たむら》家《け》に三兄弟あり。
 町内に名だたる秀才の長男。スポーツ万能の三男。そして、凡人の次男。ちなみに次男が俺だ。
 賢《かしこ》い兄は両親の自慢だった。そして弟はとにかく明るく、アイドル的存在だった。注目度の高い息子が二人もいたのだ。よって我《わ》が家は常に大騒ぎだった。
 そしてその大騒ぎの中、凡人の俺は、常に一步引いたポジションにいた。どのアルバムを紐解《ひもと》いても、幼い俺は腕を組み、片手の指を顎《あご》にもっていくポーズで決めていた。見ていたのだ。兄と弟、それから二人に振り回される両親を。
 今にして思えば、田村家に育って得たものは観察力だった。……と思う。
 それがファーブル再来につながった。……と思う。
 しかし、時の流れはいつだって残酷《ざんこく》だ。
 学年が上がると、周囲の友人達は次々に昆虫を卒業していった。カナブン交換はゲットしたモンスター交換へ、バックが捕れる草むら情報は分厚い漫画誌の早売り書店情報へ、昆虫|図鑑《ずかん》は『人体の不思議《ふしぎ》図鑑.男子と女子のからだのしくみ』へ……。
 あっさりと俺は唯一《ゆいいつ》の勲章《くんしょう》を失った。
 そして、その直後あたりからだったろうか。慰《なぐさ》めのつもりなのかなんなのか、親戚《しんせき》のじいさんばあさんにこんなふうに言われることが増えていた。
「雪貞《ゆきさだ》は、将来きっといい男になる」
 近所のおばちゃんも、
「あんたは将来、なんかでかいことやらかしそうだ」
 それから担任も。
「田村、俺はおまえがイイ味してる奴《やつ》だって知っているからな」
 ……総合するに、『今はぱっとしないけど』、と。
 ふん、そんなこと、わざわざ言われなくたってわかっているとも。なにせ昆虫の次の趣味《しゅみ》は、古典の世界の風俗史だ。
 ちなみに、今最高にはまっているのは鎌倉《かまくら》時代の風俗。渋色《しぶいろ》に染め上げた直垂《ひたたれ》に、折《お》り烏帽子《えぼし》。そしてなんといっても鎧《よろい》。兜《かぶと》。白糸《しろいと》縅《おどし》に赤糸縅……この美しさときたら、華麗《かれい》にして勇壮、まったくもって筆舌に尽くしがたい。日本男児の美しさ、ここに極まれり。
 ああ、いい。……いい!
 いざ鎌倉《かまくら》!
 ――というところで、悲劇《ひげき》は起きた。
 それは、昨夜のこと。
 古典資料集を眺めているうちに、いざ鎌倉、と感極まった。気がつけば、兄の竹刀《しない》を拝借し、深夜の自室の鏡《かがみ》の前で武士ポージングを決めてみている俺《おれ》がいた。
 竹刀をスラリと抜きながら、
「我《われ》こそは田村《たむら》雪貞《ゆきさだ》なり。いざ、仕《つかまつ》る!」
 小声で呟《つぶや》いてみたりもした。
 その瞬間《しゅんかん》にドアが開き、竹刀の持ち主である兄が現れ、
「おーいこっちに俺の辞書……なにやってんだおまえは」

 きゃー。
 と、いっそ叫びたかったのだ。昨夜の俺は。
 思い出すたび顔から火が出そうで、乙女《おとめ》のように両手で頬《ほお》を覆《おお》う。見られたのがアレでまだマシだった、と己《おのれ》を慰《なぐさ》めるしかない。もっと恥《は》ずかしいことだってしているのだから……ああ、しかし。
「……ねえ田村。俺の質問、聞いてた?」
 肩を揺すられ、深遠なる思索の世界から現実へと引き戻される。見上げれば、見慣《みな》れた地味顔がそこにあった。昆虫博士時代からの親友.高浦《たかうら》だ。
「よう、高浦」
「……はあ。聞いてなかったんだな」
 高浦は大げさなため息をつき、俺の鼻先に指を突きつけた。
「もう一回言うから、今度はちゃんと聞いてろよな。えー、さて。――今は一体『どんな時』でしょう?」
 なんだそりゃ。
 クエスチョンマークを小首を傾《かし》げて表現する高浦は不気味《ぶきみ》だし、質問の意図はまったく不明だ。しかしボケじいちゃんと思われるのも嫌《いや》なので、
「今は昼休み後半戦だ」
 とりあえず、答えてやる。
「そーじゃなくて! もっとこう、カレンダー的に言うと?」
「カレンダー的? なら七月だな」
 ちなみに、期末|試験《しけん》は二週間後。それが終われば、夏休み。受験用語で天王山《てんのうざん》だ。
「ちっがーう! やっぱりおまえはばかたれだっ! わかってない、正解は『中学生活最後の夏』だ!」
「……ふーん……」
 半ば呆《あき》れつつ、いつもの癖《くせ》でエンピツの尻《しり》をかじり、窓の外に目をやった。
 カレンダー的に、中学生活最後の夏? そんなことが書いてあるセンチメンタルカレンダーはありません。
 眺めた窓の向こうには、昼下がりの夏空が広がっていた。眩《まばゆ》くも鮮《あざ》やかなライトブルーが清々《すがすが》しい。セミの声が遠く近く……おお、風流かな。アブラゼミとクマゼミのハーモニー。
 彼らが奏《かな》でる夏の協奏曲に耳を傾けつつ、指先でエンピツを回した。机上には、今日《きょう》が提出期限の進路|調査《ちょうさ》票《ひょう》が書きかけのままになっている。書いている途中で昨夜の事件が脳内プレイバック、羞恥《しゅうち》のあまり筆が止まってしまっていたのだ。
 志望校の欄《らん》はもう埋まっているから、あとは学年、クラス、出席番号を書き、署名。
 田《た》(とめ!)村《むら》(てん!)雪《ゆき》(とめ!)貞《さだ》(ずばっ!)。
 ……我《われ》ながら、なんて立派な名前なのだろう。誰《だれ》も言ってくれないから自分一人で思っているが、ちょっぴり武士っぽくもある。
 書き上げた調査票は高浦《たかうら》へ。なにを隠そうこの男、クラス委員長の座に執着《しゅうちゃく》し(り、り、立候補しやがった)、提出物の回収という地味な作業を嬉々《きき》として行なうド変態なのだ。
「ハイ田村提出、チェック、と。まだ何人か出してないのがいるな……いやいやいや、そんなことよりさっきの話の続き! 中学生活最後の夏について!」
 ド変態男は目を輝《かがや》かせ、ズイ、と身を乗りだしてくる。しかし続きと言われても。
「……別に。としか俺《おれ》には語るべき言葉がないのだが。こんな俺でよければ、まあ、続きとやらを語りたまえよ」
 俺はそんなことより鼻をほじりたかった。よしほじろう。
「ああもう、わかってない! 別に、じゃなくて、そろそろ気付け! そうやってボエーっとしてる間に、おまえは完全に出遅れてしまっているんだぞ!」
 高浦にその手をグッ、と掴《つか》まれる。熱《あつ》い手だ。しばし見つめあう俺とおまえ……きらきらきら……ん?
「俺が……出遅れ?」
「出遅れまくりだ! これを見ろ!」
 高浦は胸ポケットから八つ折の紙片を引っ張りだす。広げてみれば、それはクラス全員の氏名と連絡先が記されたA4判の連絡網だった。俺は引いた。
「……おまえ、こんなもん持ち步いているのか? マニアックな……」
「もっとよく見てごらんなさい。ポイントはこの線《せん》だ」
 高浦《たかうら》の指がたどるのは、こいつ自身が書き加えたのだろう、整然《せいぜん》と並ぶ名前の間をつないでいるエンピツ書きの何本もの線《せん》。
「まずこれだ、ここ、鈴木《すずき》ちかと、ここ、野村《のむら》。聞いて驚《おどろ》け、奴《やつ》ら先月から付き合っている」
「な、なにィ!?」
 唐突な情報に思わず前のめり、背筋を伸ばす。なんてことだ、あの『おふくろさん』こと鈴木ちかと、『3Bの子猫坊や』野村が? ドキドキしたり、キラキラしたり、ネバネバしたりしているというのか?
「や、やだぁ~!」
「いやだろ~?」
 クネクネと動揺《どうよう》する俺《おれ》を尻目《しりめ》に、高浦のシャーペンはグリグリと陰湿な音を立て、紙上の鈴木と野村の名を結ぶ線をさらにくっきりとたどり直す。
「驚くのはまだ早い。林《はやし》と小林《こばやし》。天野《あまの》と石岡《いしおか》というびっくりカップルも出現だ。このあたりは今月に入ってすぐツガイになったらしい。それからこことここ……ここと、ここ……ここは、隣《となり》のクラスの横山《よこやま》さんと……それから……ここはもう別れたらしい。これも別れて、今はこっちとこっち、……と」
 なんたることだ。
 連絡網――いや、『情愛地図』とでも呼ぶべきものの線上をたどるシャーペンの動きを目で追いながら、俺はめまいを起こしかけていた。引かれた線は二者の名をつなぎ、また途切《とぎ》れ、時に蛇行し、時に幾股《いくまた》に、時に一方通行で、あらゆる方向に伸びている。
 ある特定の、数人の名を避けるようにして。
「い、いつの間にこんなことに……」
 思わず震《ふる》える指を伸ばし、ポツン、と白く取り残された、俺(と高浦)の名前に触れた。とってもとっても悲しいことだが、俺(と高浦)の名前は他《ほか》の数人の名前とともに絡まりあう黒《くろ》線《せん》から完全に取り残されて、悲しいぐらいに目立ってしまっているのだ。なるほど、と思わざるをえない。確《たし》かに俺(と高浦)は出遅れている。ボエーっと鼻をほじっている間に、同級生達は複雑な線で臆面《おくめん》もなく結ばれあっていた。
「『やっぱり最後の夏休みダモン! 思い出作らなくちゃソンだよだよ?』――と、女子が言っているのを聞いた。そして、こいつらの多くががっぷり組みあったのが先月末、ないし今月のこと。……つまり今、俺たちの周囲には、告白ブームが訪れているのだ」
 告白!
「……ブームぅ?」
「変な顔すんな。感じないか? この、今なら許される、今だけ許される、という微妙な雰囲気を。振られて恥《はじ》をかいても卒業でお別れだし、うまくいけば最高の夏が待っている。さらに、その関係が続くかどうかはさておき――これも女子が言っていたが、恋愛|経験《けいけん》があるのとないのとでは、入れるグループが違うのだ、と」
「……グループって、なんだよ」
「俺《おれ》にはその女子が言っていることがわかるぞ。この連絡網を見ろよ。人間って二《に》種類《しゅるい》に分かれてると思わないか?」
 情愛地図に目を落とした。そしてすぐに、奴《やつ》の言っていることの意味が理解できた。まず一種類が、黒《くろ》線《せん》ごちゃごちゃの渦の中に埋もれた名前。そしてもう一種類が、俺や高浦《たかうら》のように、一切の混乱に巻き込まれずにきれいなままの名前。
 これは、つまり……
「恋愛に縁《えん》のある側と、縁のない側……」
「そう。言い換えるなら、モテと非モテだ。そして俺たち、顔も地味.キャラも地味.すべて地味なジミメンは……」
「あからさまに非モテ……っ」
 ざわ……ざわ……
「なあ、『こっち側』のグループはやばいだろ? いやだろ? 俺たちこのまま突き進めば、二十歳で童貞、三十路《みそじ》で未婚、四十丸ハゲ、五十で、んーと――」
 息を飲んだ。どうなるんだ。五十で一体、どんな悲劇《ひげき》が!?
「まあいいや、とにかくそんなん俺はいやだ! だからこのブームに乗って、彼女を作りたい! そして高校入学という大きな門出《かどで》の前に、『あっち側』の仲間入りをしたい! 俺はそう思っているんだ!」
 ――ガク、と力が抜けた。
「あのなぁ……」
「田村《たむら》はいやじゃないのかよ!」
「……そりゃまあ、やだけど」
 俺だって、いくらぱっとしなくても、曲がりなりにも正常な思春期男子なのだ。恋愛に縁がある側とない側があるなら、もちろんある側に行きたいし、陽《ひ》のあたる人生を步みたい。
 しかし、だ。
「……なあ高浦。俺達の世界はとても狭いよな。町内……いや、せいぜいがこの教室ぐらいが世界のすべてと言っていい。そうだよな」
「へ? うん、まあそうだけど……なんだよいきなり」
 うむ、と高浦の返事に頷《うなず》いてみせ、俺はゆっくりと立ち上がる。そして、
「……彼女を作りたいといったな。ならば見てみろ! 俺たちの世界の彼女候補たちのご面々を!」
 真四角の見慣《みな》れた教室に、グルリと視線を放った。
『それゎマジできもぃし→ぉ友達としてゎ→病院に行くことぉ→ぉすすめスルし→ハラへらねぇ?」
 ……ほら。
『昨日《きのう》静香《しずか》先輩《せんぱい》(一つ上)ン家《ち》に行ったら、徒麗羅亜(とれーらー)くんが魅瑠苦(みるく)仏契(ぶっちぎり)で飲んでて』
 ……な。
『俺《おれ》ってかなり精神|壊《こわ》れてて(笑)別の人格(紅《くれない》.聖龍《せいりゅう》.狂夜《きょうや》)出てくると激《げき》ヤバなんで(笑)怒らせない方がいいッス(笑)その笑顔《えがお》が激こえ~よ□ってよく言われるんだけどね(笑)』
 ……これで、わかっただろう。
「どうだ高浦《たかうら》、これが――」
「はぁ!? なんか田村《たむら》、ウチらのことジロジロ見てねえ!?」
「マジで!? 見てんじゃねえよ金とんぞ!?」
 ――これが、女子の現実だ。
 その言葉さえも言い切れず、声を失ってがっくりと机に倒れ伏した。なんなんだ。ここは動物園か。一体こいつらのどこに魅力《みりょく》を感じ、どう恋に落ち、どう告白しろというんだ。どこに『付き合いたい』相手がいると。誰《だれ》か答えてくれ――
「た、田村、しっかりしろ! 傷は浅い!」
「……俺はもうだめだ……『あっち側』へは、おまえ一人で……行ってくれ……俺はいい……『こっち側』のままで……」
「田ー村ぁー! 逝《い》くなぁー!」
「……さら、ば……」
 ああ、短い一生だった。ゆっくりと一重《ひとえ》の目蓋《まぶた》を閉ざしていき、闇《やみ》が次第に俺の空虚な心を蝕《むしば》み始め――
「ぶふっ!?」
 恐慌。
 突如、いずこかから飛来した正体不明物体が顔面を覆《おお》い尽くしたのだ。驚《おどろ》きのあまりそいつを引《ひ》っ掴《つか》み、
「なんだこりゃっ!」
 立ち上がっていた。
「ふぁっ」
 おかしな声を出していた。
 時が、止まった気さえした。
 体温さえ感じられそうな距離《きょり》だった。
 鼻先よりおよそ十センチ先だった。

 そこに、そいつはいたのだ。

 そして。
「……ごめん」
 ほぼ同じ高さの目線《めせん》。
 目を疑うほど小さく薄《うす》い唇から、感情を感じさせない細い声が零《こぼ》れたのを聞いた。
 ごめん。と。
「……それ。いい?」
 それ。いい? と。
「あの……それ。……私のなんだけど。風が吹いて、飛んだの」
 あの。それ。私のなんだけど。風が……ん?
「あ!? い、いかん!」
 はっ、と気付いた時には、すでに遅し。顔面を覆《おお》い尽くした正体不明物体――目を開けば一瞬《いっしゅん》でそれとわかる進路|調査《ちょうさ》票《ひょう》は、俺《おれ》の手の中で握《にぎ》り潰《つぶ》され、くしゃくしゃになってしまっていた。
「すまん――」
 彼女は――そう、彼女の名前は。
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「す、まん……松澤《まつざわ》」
 ……でいいんだよな。松澤……確《たし》か……結構変な名前で……そうだ。
 松澤、小巻《こまき》。
 真っ白くて小さな顔に、異様なほどにキラキラ光る茶色《ちゃいろ》の目玉が二つ。それが俺《おれ》をじっと見つめている。ガラス玉みたいに透き通る目玉だ。思わずジっと見てしまい、
「今、伸ばす」
 俺はすっかりわけがわからない。わけがわからないまま、くしゃくしゃにしてしまった進路|調査《ちょうさ》票《ひょう》を伸ばそうとそいつを広げ始め、
「……いい」
 奪われた。いや、元々は松澤のだ。取り戻された。
 そしてくしゃくしゃの紙《かみ》屑《くず》みたいなそれを、松澤はそのまま「はい」と高浦《たかうら》に渡し、窓際の席へと戻っていく。狭い机の間を縫《ぬ》って步くスカート越しの尻《しり》は、子供のように小さい。規定どおりのソックスに包まれた足首は、まるでカモシカだ。薄《うす》い肩、小さな背中、そして、おいおいあの胴体のどこに内臓《ないぞう》がつまっているんだ。さてはおまえ、うんこしないな?
「……ちょっとちょっと。田村《たむら》? いつ生き返ったんだ?」
 ボブカット、とか言うのだろうか、肩のあたりで切《き》り揃《そろ》えられた髪は、さらっさらのぴっかぴか。それを揺らしながら席につき、つまらなそうな顔をして、松澤は窓の外に目をやる。
「田村ー。おーい、田村やーい」
 大声でしゃべったりなんかしない。雑な奴《やつ》らとつるんだりもしない。松澤はただ一人、静かに空を見上げていた。風が髪を散らすのにも構わず、陶磁器《とうじき》でできた人形のように。
 ――なんだ。と、思っていた。
 なんだなんだなんだ。
 いたじゃないか。
 松澤小巻。
 三年生になって、初めて同じクラスになった奴。それまでは存在さえ知らなかった。中学入学と同時にこの町に越して来たとかで、過去の知れないミステリアスガールだ。確《たし》か、成績《せいせき》がべらぼうにいい――三年生になると模試の結果が張りだされるため、それでわかったことなのだが。
 そんな松澤が、いたじゃないか。
 今、初めて会話をした。
 あんな至近|距離《きょり》から、初めて奴を見た。
 なんなんだ。あのキラキラする瞳《ひとみ》は。真っ白で、すべっすべの肌は。透けるみたいで、光るみたいで、目が離《はな》せなくなったじゃないか。
 気付けば俺は、
「悪かった」
 謝《あやま》っていた。
「おまえの存在に、今まで気付いていなかった」
「田村《たむら》ー、帰ってきてくれー、目がすわってるぞー」
「知らなかったんだ。おまえがそれほどまでにできる奴《やつ》だとは。……おい高浦《たかうら》、奴は、松澤《まつざわ》は、かわいいぞ」
「……げ。マジで言ってる?」
 振り返り、今の今まで存在を忘れていた高浦の地味顔を見上げる。
「当たり前だ。こんな嘘《うそ》をついてどんな得がある。あいつはめちゃくちゃかわいいぞ。見ろ、他《ほか》の奴らとは一線《いっせん》を画《かく》するあの静かなる佇《たたず》まいを」
 と指差した瞬間《しゅんかん》、
「ックション!」
 松澤は豪快にくしゃみをぶっ飛ばしていた。
「おうパワフルだ。鼻を押えて……鼻水か? さすが松澤、ハンカチはピンクだな」
「あ、あのさあ、田村。もしやと思うけど……」
「おまえのもしやを現実にしてやろう。俺《おれ》は奴と『あっち側』に行く」
 ニヤリと笑い、迷うことなく宣言した。ヒエ、と高浦は奇声を発するが、知ったことではない。だって松澤はあんなにステキな奴だ。今まで気がつかなかったのが申《もう》し訳《わけ》ないほど――はっ!?
「いかん! さっきの情愛地図を見せろ!」
 ある可能性に行き当たり、高浦の手から情愛地図を奪い取った。あんなにステキな松澤だ、よもや他の男の手に汚されてはいまいな!?
「……よし、セーフ!」
 松澤|小巻《こまき》の名にいやらしく伸ばされた黒線がないのに一安心。危ないところだった。さあ、あとは俺とおまえの名を結ばせていただこうか。この真っ黒く、ぶっとい線でな!
「田村、あのな……セーフ、じゃなくてさ」
「ああんうっさいな! 俺と松澤の邪魔《じゃま》をするな!」
「……よく考えてみろ。松澤は確《たし》かにかわいい。それなのに、属するのは『非モテ』グループだ。不思議《ふしぎ》じゃないか?」
「不思議な幸運だな」
「理由があるとは思わないのかよ。俺達が非モテなのは、地味なツラをしているからだ。じゃあ松澤は? なぜだと思う?」
「運命」
「マジな話だってば。やめといたほうがいいよ、松澤は。あいつは攻略可能キャラじゃない。賑《にぎ》やかしの不思議《ふしぎ》ちゃんだ、立ち絵はあってもイベントCGはない。表情替えパーツもない。そもそもルートなどない。松澤《まつざわ》エンドはありえない」
「……テクニカルターム満載だな」
「いいから、ほら。これ見ろよ。ほんとはこういうことするの、ダメだけどさ……」
 身体《からだ》で隠すようにして、高浦《たかうら》は手にしていたクシャクシャの紙片――松澤の進路|調査《ちょうさ》票《ひょう》を俺《おれ》に見せようとする。さすがにそれはやばいだろう、とジミメンクラス委員長に抗議《こうぎ》しようとしたが。
「……ん?」
 ほんの一瞬《いっしゅん》の、個人情報|漏洩《ろうえい》。
 視界に入った文字の意味を理解するより早く、調査票は元どおりに丸め込まれた。な、わかったろ、と高浦が囁《ささや》いた。しかしそれは、一度見ただけではなかなか理解できるものではなかった。
 脳裏で反芻《はんすう》するのは、四角で囲われた第一志望校の記入コーナー。
 そこには『故郷の星に帰る高校』と――いや待て、『高校』はデフォルトで印字されていたはずだ。ということはつまり……つまり?
「『故郷の星に帰る』……?」
 高浦は声をひそめ、意味を理解しようと首を傾けている俺の肘《ひじ》を軽くつつく。
「……言っとくけど、あいつはこれまでに提出した調査票に、毎回今のと同じことを書いてる。何度担任に怒られてもな。これって結構|噂《うわさ》になってて、知られてる話」
「……故郷の、星……」
「つまりそれが、敬遠されてる理由ってことだ。あいつはやめとけ。あいつは――」
 ストップ.ザ.高浦。俺はチチチ、とその言葉の先を制した。
「みなまで言うな。よーくわかった。なるほどな」
「……ま、他《ほか》にいくらでも普通の女子はいるって」
「松澤は、冗談《じょうだん》のわかるいい奴《やつ》だ!」
 ズッ、と伝統的なやり方で高浦がコケてみせてくれたが、そんなお寒いモンに構っている暇はない。故郷の星に帰るとは、なんてロマンチックで女の子らしいんだ。それに高浦がやめろと言うほど、ライバルの少なさに安心できるってものだ。ナイスだ松澤! すべてがオッケーだ!
「……はあ……」
 ため息をつき、高浦はがっくりと項垂《うなだ》れる。しかし悪いがおまえがそうやっている隙《すき》に、俺は『あっち側』へ行かせてもらう。
 なにせ今は、『中学生活最後の夏』なんだ。

       2

 目覚し時計が鳴り始めるのと同時に、一気にベッドから飛び降りた。
 早朝の蒼《あお》い光の中で、いつもより念入りに顔を洗い、いつもより念入りに歯を磨き、兄の整髪《せいはつ》料《りょう》をちょっぴり前髪付近に馴染《なじ》ませ、鏡《かがみ》を見つめる。
「松澤《まつざわ》、俺《おれ》と付き合おう」
 ニコッ! ――笑顔《えがお》の練習もOKだ。
 制服に着替え、支度《したく》を整《ととの》え、軽快に一階のリビングへと降りる。その途端《とたん》、毎日変わらぬ味噌《みそ》汁《しる》の匂《にお》いがフワっと鼻をくすぐった。
 足音が聞こえたのか、キッチンの母親が振り返り、
「おはよ……あらっ!」
 驚《おどろ》きの表情を浮べる。
「お兄ちゃんかと思ったら、あんた今朝《けさ》は早いじゃない」
「フフフ、今日《きょう》から俺は毎日この時間に出る。覚悟しておけよ」
「ふーん、あらあらおなべが」
 ……母親は、せっかくの俺の覚悟完了ポーズを見てもいない。まあ、こんなもんだ。一人でさっさと食卓につき、飯をよそい、頂《いただ》きます、と箸《はし》を取る。
「ちょっとあんた、お兄ちゃんと孝之《たかゆき》起こしてきてよ。お兄ちゃんは生徒会の早朝|会議《かいぎ》なんだって。またテレビの討論《とうろん》会《かい》に呼ばれちゃって」
「さすが歴代|最《さい》優秀《ゆうしゅう》会長だな」
「孝之は、ほら、アレがあるじゃない。ブラジルの招待試合。また選抜されたから、しばらく野球の方の練習はお休みしますってコーチに挨拶《あいさつ》しないといけないのよ」
「ブラジル……今年《ことし》はサッカーメインでいくのか」
「まったくなんか大変よねえ。あんたほら、起こしに行ってくれないなら早くごはん食べちゃって。ああ忙しい、お父さんもまだ寝てるの?」
「もう食い終わった。行ってくる」
「あら? 本当にこんな時間に行くの? なんで?」
 なんで、か。いい質問だ、答えましょう。
「俺は今日から、毎日学校で早朝マラソンするのだ! 行ってきます!」
 変な子、と呟《つぶや》く母を尻目《しりめ》に、玄関から門までの階段を一気にジャンプ、早朝の町に飛びだした。
 時刻はまだ七時。日差しはすでに眩《まぶ》しさを増しているが、風はひんやりしていて、暑くないのはありがたい。
 いつもの通学路を、通常の三倍のスピードで弾むように突き進む。目指すはお馴染《なじ》みの校門。なんだか腹の底が焦《じ》り焦《じ》りとして、のんびり步いていられないのだ。早く着きたい、その一心でひたすら足を交互に振りだす。こんなに学校に行きたいのは、生まれて初めてかもしれない。
 理由はただひとつ。松澤《まつざわ》がいるから。
「……へっへっへ」
「ブナッ!?」
 思わずニヤケてしまう。通りがかりのネコが薄《うす》気味《きみ》悪《わる》そうに振り返るが、知ったことではない。
 ――毎朝松澤は、一人でランニングしているらしい。
 そんな情報を俺《おれ》に教えてくれたのは、なにを隠そう高浦《たかうら》だった。松澤はやめとけ、とそればかり言っていた高浦だったが、帰りのホームルームの頃《ころ》には、
『……もしかしたら、おまえらお似合いかもしれないなあ。なんか想像してみたら、すっげえおもしろくなってきた』
 改心していた。そして、こんな素晴《すば》らしき情報をクラスの女子から得て、教えてくれたのだ。なんでも松澤は、今年引退するまでは陸上部員だったらしい。俺ときたらそんなことも知らなかった。
 俺は誓った。『あっち側』の人間になっても、協力者高浦を永遠に愛すると。

 校門をくぐって昇降口まで爆進《ばくしん》、人気《ひとけ》のない廊下をダッシュして、静まり返った無人の教室に飛びこむ。カバンを置き、更衣室まで行くのは面倒《めんどう》だ、その場でジャージに着替え、向かうはグラウンド。
 そして――
「松澤……」
 発見。本当にいた。ざわざわざわ、と全身が痒《かゆ》くなるような妙な感覚に、できることなら転げまわって叫びたい。
 ジャージ姿の松澤は、重力を感じさせない軽やかさで、風のようにランニングしていた。
 遠目に見える横顔に朝日が射《さ》している。鼻梁《びりょう》のカーブから光が洩《も》れて、まるで日蝕《にっしょく》のようだ。
 さっそく追いつこうと、ランニングコースへ入った。俺に気付いていない様子《ようす》の松澤に並ぶために、かなりの速度で走りだす。緊張《きんちょう》? そんなもんしないしない。
 昨夜のうちにシミュレーションは済んでいた。『よう、奇遇だな』――軽やかに背後からまず声をかける。驚《おどろ》いたように振り返る松澤。『あら、田村《たむら》くん。どうしたの?』『ちょっと走りたくなってね』……そして転がりだす会話。自然と盛り上がる俺達。しかしあせらず、ガツガツせず、あくまでクールに『さ、そろそろ切り上げようか。始業に遅れるよ』と、先にクルリと背を向ける俺。俺の背後で、『もっとおしゃべりしたかったのにな……え? あれ? うそ、私ったら……こんな気持ち……はじめてダヨ……」キュン、となっている松澤《まつざわ》。
 完璧《かんぺき》だ。
 だがひとつ、別のところで問題が生じていた。
 デッ、デッ、デッ、デッ、デッ。←俺《おれ》
 タッタッタッタッタッタッタ。←松澤
「あ、あれ……?」
 ――松澤に、追いつけないのだ。ああ、ステキな松澤、おまえは足も速いんだな。
 ……。
 どうしよう。
 一向に距離《きょり》が縮《ちぢ》まらない松澤の背中を見ながら、一計を案じた。別にO型のコースだからといって、O型に走らなくたっていいのではないだろうか。うん、そうだ。
 θ!
 正々堂々ショートカットを敢行《かんこう》、予定とは少し違うが、俺は真横から松澤に接近を試みる。そして、
「よう! 松澤!」
「……うっ!?」
 声をかけた。その瞬間《しゅんかん》、ものすごい勢いで俺を見た松澤は、明らかに地面から十センチほどビクッと跳ね上がった。かわいい奴《やつ》め。
「奇遇だな! おはよう!」
 爽《さわ》やかに微笑《ほほえ》みながら、松澤の隣《となり》にピチっと張り付く。
「お……おはよう」
 ジン、と幸せが腹の底にたまった。これが俺と松澤の初《はつ》挨拶《あいさつ》だ。微妙に外周へ外周へと逸《そ》れていく松澤を追い、俺も外周へ外周へ。
「おまえ、いつもこんな時間から走っている、のか!?」
「え……? ……まあ」
「な、何周、ぐらい走るんだ!?」
「……時間切れまで」
「そ……そ、……それって、何時だ!?」
「……八時、ぐらい」
「……そ、」
 そうか。八時か。あと四十分も走り続けるのか。この速度で。そうか。偉いぞ。
 でもな。
 デッデッデッデッデ……ッデ……デ……。
 俺はどうやら、もうだめだ。
「……は、はぁ、はぁ、はぁ……」
 気がつけば、松澤《まつざわ》の背中はまた遥《はる》か彼方《かなた》へ。
 俺《おれ》はとうとう立ち止まり、ものすごい勢いで呼吸を継いだ。死ぬかもしれん。恥《は》ずかしいほどはあはあぜえぜえと唸《うな》りながら、絶望的な体力の差を思い知らされる。
 ああ……目、目が、回る……。

「……ま、相手は陸上部員だ。おまえみたいな完全インドアタイプが追いつこうなんて百年早いんだよな」
 哀《かな》しいかな、俺はコソコソと教室に戻った途端《とたん》貧血を起こし、登校していた日直の手によって保健室送りになっていた。
 松澤の目を避けつつ再び教室に帰還《きかん》したのは、一時間目が始まる直前。その俺の目の前に、高浦《たかうら》は、なにやら巨大な包みを差しだしてくる。
「俺はこうなることを予想していたぞ? だから、ホレ。これしかないだろう」
「……なんだこれ」
「オヤジの書斎にあったやつ。ずっと使ってないし、貸してやるよ。ま、できるとこまでがんばれな。応援するよ。俺、本気でおまえと松澤のカップルっていうの見てみたくなってきてさー、なんか絶対笑えそうだろ?」

 高浦ー!
 愛してるー!
「フン! フン! フン!」
 おまえのためにー!
 俺と松澤は人類に微笑《ほほえ》みを振りまく癒《いや》し系カップルになってみせるー!
「フン! フン! フン!」
「おーい雪貞《ゆきさだ》、俺の辞書……なにしてるんだ」
 よう兄貴! 今日《きょう》も辞書か! 買え!
「見てわかるだろ! フン! フン! フン!」
「……わからないから聞いてるんだが」
「こんなこともわからないで天下の旧帝大を受験《じゅけん》するつもりとは、まったく恐れ入る特攻野郎だ! これはな、ボディ○レードです!」
「や、そういうのが聞きたいわけじゃなくて……もしかして、筋トレ、か?」
「そう!」
 中腰になって股《また》を開き、スキー板のような長い棒をブンブンと揺すりながら、俺はニヤリ、と笑って見せた。
「これを、五分やると、腹筋百回分だそうだ! フン! フン! フン!」
「……おまえ、受験生《じゅけんせい》だろ? 勉強しろよ……」
「そんな暇はないんだ! なぜなら今は、一生の恋愛人生を決める天王山《てんのうざん》! そんな気がする!」
「……それは、おまえ……受験の天王山から逃避《とうひ》したいだけでは……?」
「知るか! フン! フン! フン!」
「……まあ、いいけど……。晚飯はすき焼きだから、早く降りて来いよ。孝之《たかゆき》はとっくにスタンバってるし、なくなるぞ」
「なに、すき焼き? よし食おう」
 ボディブ○ードをポイと投げだし、俺《おれ》は額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》った。食後にまたがんばるとするか。
『よう松澤《まつざわ》! また明日《あした》な!』――初.帰りの挨拶《あいさつ》をした瞬間《しゅんかん》、やっぱり『うっ』とうめいて十センチほど跳ねた松澤のために。

 さて。
 昨日《きのう》の失敗の原因は、松澤に追いつけなかったこと。ということは、
「……先に来て待っていればいいんだよな」
 時刻は六時半。
 俺はジャージに着替え、グラウンドの入口の石段に腰を下ろして松澤を待っていた。
 このひと時を有益に過ごすためならば、早起きなど少しも苦ではない。ランニングの時間は、ほとんど唯一《ゆいいつ》の松澤の声が聞けるチャンスなのだ。
 教室で話しかけようとしても、トゥーシャイな松澤はスイっと魚のように逃げて行ってしまう。せいぜいが、不意打ちで挨拶をするぐらいが関の山だ。だから、この朝のランニングのひと時は、松澤に逃げ場がないという意味で、非常に貴重なのだ。なんだか俺は悪い男のようだが、話したいのだから仕方ない。
 ただ一つ心配なのは、俺が来ると思って、奴《やつ》がランニングをやめてしまうこと。昨日《きのう》の態度を慮《おもんぱか》れば、あながちないことともいえない。それでも待つことしかできないから、待つのだが。
 顎《あご》を膝《ひざ》に乗せ、早朝の空を眺めた。
 真夏の朝はすでに眩《まぶ》しく、昼の暑さを予感させる。真《ま》っ青《さお》な空には力強い入道雲。今日《きょう》もきっと、一日いい天気になるのだろう。
「うっ……」
 前触れもなく、背後から苦しげな悲鳴が聞こえた。振り返り、練習済みの爽《さわ》やかな笑顔《えがお》をニヤリと向ける。来やがったな。
「よう、遅いじゃないか松澤《まつざわ》。今日《きょう》は来ないかと思ったぞ」
「……な、なんで……」
 今日の松澤(寝癖《ねぐせ》つき)は、ジャージの裾《すそ》をクルリンと折り返して、細い足首をチラリズム。それがあまりにもかわいいのと、ちゃんと現れたのが嬉《うれ》しいのとで、ニヤニヤ笑いが止まらない。
「忘れたのか? 俺《おれ》は昨日《きのう》、また明日《あした》な、と言ったはずだ。ちなみにおまえの返事は『うっ』だったがな」
「……う、う……」
「鵜《う》がどうした。それ、走るぞ! どうしたグズ助、どんと来い!」
「ス、ス、」
「酢?」
「ストレッチ……しないと」
「おお……」
 なんて奴《やつ》だ。俺は惜しみない拍手を送ってやる。
「さすが松澤……その慧眼《けいがん》には恐れ入る!」
「……ども」
 俺の動きを気にしながら、松澤はおずおずと屈伸を始めた。その動きを真似《まね》して、俺も酢トレッチ。
 小さくて丸い膝《ひざ》だな、とか、手首が細すぎて壊《こわ》れそうだ、とか、頬《ほお》が真っ白、とか、目玉でけー、とか、屈《かが》むとちょっと伸びかけたTシャツの襟《えり》ぐりの中が覗《のぞ》けそうで気になって気になって気になって気に
「……じゃ」
 ――松澤はさっさと走り始め、ランニングのコースに入ってしまう。おうおうおう、これでは待っていた意味がない。慌てて俺も走りだす。
「じゃ、とはなんの冗談《じょうだん》かな? この照れ屋め」
「……」
 真横に今日もぴっちりと付いた。
 さっそく筋トレの効果が出たのだろうか、なんだか昨日よりも並走するのがラクだ。
「さあ今朝《けさ》は、おまえが毎朝ランニングしている理由を聞こうか!」
 松澤は眉《まゆ》をハの字にし、迷惑そうに頬を歪《ゆが》める。しかし堪忍《かんにん》してはやらない。奴が答えるまで、ん? ん? と横顔を窺《うかが》い、いやらしく待ち続ける。そして二周目にさしかかった頃《ころ》、
「……家にいても、仕方ないし……」
 ようやく松澤は答えをくれた。あやうく質問の内容を忘れるところだった。さあ、ここから追撃《ついげき》開始だ!
「ふんふん、それでそれで!?」
「……え」
「それでどうしたんだ!? えぇ!?」
「……う」
「仕方ないし、それからなんだ!? あァん!?」
 もっともっと奥深くまで聞いてやる! 立ち入ってやる! 答えるまでは許さねえぞ! ……一体なにがここまで俺《おれ》を追い立てるのか、もはや自分でもわからない。だが止まらんのだ。松澤《まつざわ》はもっとわからないだろう。やっと再び口を開いたのは、三周目に突入した頃《ころ》。
「……ストレス解消になるし……。走ってると、頭……からっぽになるから」
「ハハハ!」
 思わず快活な笑い声(スポーツマン仕様)を上げた。ビクッ、と松澤《まつざわ》の肩が震《ふる》えるがそんなもんは知らん。
「お、俺なんか、ランニングのストレスを解消するために、勉強している! き、きの、昨日《きのう》は、四時間も、勉強してしまった!」
 実話だった。
 ○ディブレードをフンフンやっているうちに疲れ果て、フラフラと向かった先は勉強机だったのだ。その後の勉強が乗ったこと乗ったこと。俺という人間は、骨の髄《ずい》までインドア派というか、運動嫌いにできているらしい。かと言って成績《せいせき》も全然よくはないのだが。
「ハハ、ハ……ハ……」
「……田村《たむら》くん」
「……な……なん……だ……?」
「……ウォームアップ終わったから、そろそろ私は走るけど。初心者にしては、ペース速すぎ。しゃべりながらだと、余計苦しいと思う」
「……え?」
 ウォームアップ?
 そろそろ?
 なあに、それ?
 俺は、さっきから、ずっと、全力で、走っていたけど?
 一瞬《いっしゅん》意味がわからず、松澤化してしまったが――まとめると、つまり、俺を心配してくれているのか? おまえは地上に舞《ま》い降りた天使なのか?
「昨日《きのう》、保健室に行ったでしょ。……また倒れるよ」
 ばれてました。
 しかしな、松澤エンジェル。今、そんな基本的なことを教えてくれてもな、
「……も……う……お、そ……」
 今更、なんだぞ。
 みっともなく息を切らし、今日《きょう》も俺《おれ》はズルズルと遅れ始め、松澤《まつざわ》の背中はグングン遠くなっていく。足が動かなくなっていく。情けない。やはり一日では筋トレの効果など出るわけもなかったか。……そもそも、腹筋とランニングの間にどんな関係が……? いやいや、そんなことを考えている場合ではない。
「……一度立ち止まったら、余計きつくなるから。ペース、落とせばいいと思う」
 松澤が振り返り、声をかけてくれる。それでも、いやだ並んで走るんだ、と必死に俺は松澤を追おうとしていたが。
 半周の差がついたあたりで、諦《あきら》めた。
「ま、……いい、か……」
 深く息をし、速度を楽になる程度まで緩《ゆる》める。なんとか呼吸を整《ととの》えるが、こんなのはランニングなんていうスピードではないし、松澤の背中はもっともっと遠くなっていく。
 しかし、まあいいか、と思えていたのだ。
 空は真《ま》っ青《さお》だし。汗ばんだ肌に風が心地《ここち》いいし。誰《だれ》もいないグラウンドには、俺と松澤の二人きりだし。
 ――うん。まあ、これはこれでいい。
 こんなのも悪くない。
 松澤の足音を借りて、その倍のペースでリズムを取った。やがて、少しずつ一定のペースが掴《つか》めてきた。きついにはきついが、うん。
 いいんだ。これで。
 それにそのうち松澤は、一周遅れの俺に再び接近するだろう。

       3

 また明日《あした》な! で別れ、遅かったな! で会う。
 そんな日々を一週間続けた結果、俺は松澤の『うっ』に合わせて『マンボッー』と叫べるようになっていた。
 ランニングの方は相変わらずだ。
 一緒《いっしょ》に走りだし、置いていかれる。やがて周回遅れで追い抜かれるから、そのタイミングに合わせ、『昨日《きのう》の給食まずかったな』『今朝《けさ》ネコにガンを飛ばされた』『血液型なに』『肘《ひじ》に傷跡があるな』だとか話しかける。すると松澤は『うん』『え』『オー』『うん』などと追い抜きざまに返してくれる。そして八時になればグランドで別れ、松澤は女子更衣室へ消えていく。二人の距離《きょり》は、確実《かくじつ》に接近中。
 ……か?
 正直、少々微妙なところという気がしてならない。一体なにがいけないのか――。
 ぼんやりと考えつつ、教室の窓から空を見上げた。今頃《いまごろ》松澤《まつざわ》はこの空の下、家路を急いでいるのだろう。
 下校時間もとっくに過ぎた、午後四時半。
 見上げた空はまだ明るくて、アブラゼミの輪唱《りんしょう》も絶好調《ぜっこうちょう》だ。そろそろヒグラシのリードボーカルが聴《き》きたい頃合だが、奴《やつ》らが鳴くにはまだ明るすぎるかもしれない。
 いやしかし。それにしても遅い。
 委員会があるという高浦《たかうら》を待って、はや三十分が経過していた。こんなにかかるとわかっていたら、待ってる、なんて安請《やすう》け合いはしなかったのに。
 あと十分待ったら、先に帰ろうと心に決める。このところの早起き続きで、今日《きょう》という今日は凄《すさ》まじく眠いのだ。
「……ふわわわわわ」
 眠気を自覚した瞬間《しゅんかん》に、漫画のようにアクビが出た。目尻《めじり》の涙を拭《ぬぐ》い、デロン、とだらしなく机に頬杖《ほおづえ》をつく。
 と、その時。
 騒音《そうおん》の塊みたいなものが、勢いよく教室のドアをドカーンと開いた。
「超~ビビったんだけど!? アレってなに!? やばくねえ!?」
「超~こええよ! あいつわけわかんなくない!?」
「あの電波っぶり、マジこええっつーの!」
 クラスでも騒《さわ》がしい部類の女子グループだ。俺《おれ》はヤレヤレと肩をすくめた。まったく……おまえら松澤を見習いあそばせ?
「あ、田村《たむら》!」
「うっ!?」
 突如指を指され、俺は松澤化、うめいて十センチほど飛び上がった。
「ねえねえアンタさあ、最近松澤と仲良さげだったよねえ?」
 あっという間に、否《いや》も応もなく三《さん》女傑《じょけつ》にグルリと取り囲まれる。途端《とたん》にモワーっと立ち込める香水の匂《にお》いに瞬間《しゅんかん》的《てき》吐き気。こ、公害ですよ、これは!
「松澤と仲良しでなにが悪い! 嫉妬《しっと》はお断りだ!」
「はあ? なに言ってんの? キモ」
「どうでもいいからアンタ、松澤に聞いてよ。なんで高校|受験《じゅけん》しないのか」
「あんなに頭いいのに、意味わかんなくない? もしかしてあいつってすげえビンボーなの?」
 俺は、
「……は?」
 再び松澤化していた。
 香水のせいで思考能力が低下した頭の中に、グルグルと同じ言葉が回る。
 ――高校|受験《じゅけん》を、しない? 誰《だれ》が?
 松澤《まつざわ》が?
「そ、」
 舌がうまく回らず、一旦《いったん》言葉を切り、やり直し。
「……そんなわけがないだろ? 松澤は常に学年トップだぞ? 貧乏だろうがなんだろうが、奨学金とか、いくらでも」
 ……一体。
 一体こいつらは、なにを言いだしているんだ? そして俺《おれ》も、なにを言っている?
「ふーん。やっぱ田村《たむら》も知らないんだ。松澤、受験なんかしないって大騒《おおさわ》ぎしてたんだよ。今あたしら、たまたま面談《めんだん》室《しつ》のところで聞いちゃって超ビビり。担任も超パニクってて、ものすごい勢いでケンカしてて、声もダダ漏れ」
「なんだっけ? 受験も高校も関係ない、いらない、とかって松澤が叫んでてさあ」
「めっちゃヤバイ雰囲気だったよね」
「ヤバイね。あんな声出してる松澤、初めてだよ。泣いてたっぽいし、すげえこえー」
「また『星に帰りたい』とか不思議《ふしぎ》ちゃん発言してるだけかもしれないけどさぁ。今の時期にそんなこと言ってたら、本気でやばいんじゃねえ?」
 呆然《ぼうぜん》としていた。
 ひどく混乱し、俺は身動きさえとれないまま、ただ耳を澄《す》ましていた。頭の芯《しん》が痺《しび》れたようになって、こいつらの言葉を理解するのが本当に難《むずか》しかった。
 ケンカ、だって?
 あの松澤が? 担任とケンカ?
 叫んで……泣いて?
「……それ、ほんとなのか……?」
 言いながら思う。ほんとのわけがあるか。『あの』物静かな松澤が、そんなことするわけがないじゃないか。
 ほんとだとしたら、それは――
「だーかーら、ほんとだっつーの」
「わけわかんないよねー、やっぱ松澤って変わってるを通り越して、ちょいキモいかも」
 ――それは、本当の本当の本当に、松澤にとって、なにかやばいことなのではないだろうか。
 理解した、一瞬《いっしゅん》。
 反射的に動いていた。面談室と言っていた。振り返りもせず、教室を飛びだしていた。
 ついさっき、いつものように「また明日《あした》な」と別れたのだ。背後からの俺の声に「うっ」と松澤は息を詰めて、「マンボッ」と俺がふざけた合いの手を入れた。松澤はすごく嫌《いや》そうな顔をして、逃げるように教室を出て行った。今頃《いまごろ》は家路についていると思っていた。
 その松澤《まつざわ》がなんで今、面談《めんだん》室《しつ》でケンカなど。それも担任と。第一、進学しないってなんだ。
 なんなんだ。
「あっ!」
 ――タイミングがいいというか。悪いというか。
「……っ」
 階段を駆け上がったその踊り場に、松澤はいた。俺《おれ》と鉢合わせするみたいに、同じ階段を駆け下りてきていたのだ。
 だが俺は松澤を見て声も出せない。だって松澤は泣いている。
 ひどく激昂《げっこう》した後のように頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させ、髪も乱れ、口を歪《ゆが》めて、目から涙を零《こぼ》している。
 呼吸の仕方も、忘れてしまった。
「松澤! おまえなぁ、いつまでもそうやってたんじゃ――っと」
 松澤の後を追ってきたのか、スリッパを鳴らして飛びだしてきたのは担任だった。俺を見て慌てて口をつぐみ、気まずそうに顔を強張《こわば》らせる。
「……なんだ田村《たむら》。おまえは帰宅部だろう、もう帰りなさい」
 松澤は俺とお見合い状態のまま、ひ、ひ、ひ、と喉《のど》の奥で叫ぶみたいに引《ひ》き攣《つ》った声を出していた。
 俺は、動けなくなっていた。息もできずに、松澤の顔をただ眺めていた。
 そのまま、たっぷり三秒。
 死んでいたみたいな時間が弾《はじ》けた。顔を伏せた松澤は、俺を押しのけるようにして一気に走りだした。あっという間に階段を下りきって見えなくなった。速かった。本当に、速かった。
 その後を担任が追って行き、そして俺はバカみたいに、一人でそこに突っ立ったまま取り残された。
 本当に、バカみたいに。

 ――見るべきでは、なかった。
 制服のままベッドに寝転び、すでに二時間が経《た》っていた。天井《てんじょう》を眺めたまま、死体みたいに動けなかった。
 ずっと、考えていたのだ。
 そして、後悔していた。
 俺は松澤のもとへ駆けつけて、一体なにができると思っていたのだろう。なにがしたかったのだろう。
 俺がしたことと言えば、泣いている松澤の顔を眺めただけ。眺めて、そして、多分《たぶん》――傷つけた。この二つの目玉で。
 あんな場面を見られたい人間など、そうそういるわけがないのだから。
 それなのに俺《おれ》は、ズカズカと土足で踏み込んでいき、ポカーンと立《た》ち竦《すく》み……その挙句、逃げるようにあの場から走り去り、カバンを引《ひ》っ掴《つか》み、ダッシュで家に帰ってきたのだ。
「……う、わあ……」
 たまらない。
 自分のなんにもできなさが、たまらない。
 たまらなくてたまらなくて、頭を抱えて布団に潜《もぐ》った。まっ暗闇《くらやみ》の空間で、うわあ、うわあ、と繰《く》り返す。
 俺を見た時の松澤《まつざわ》の顔が忘れられない。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、唇を歪《ゆが》め、真《ま》っ赤《か》になった頬《ほお》が涙で汚れ――かわいい、なんてものではなかった。赤鬼の子供のようだった。見ているこっちの胸が抉《えぐ》られるような、そんな形相《ぎょうそう》だったのだ。
 俺が見ていいものでは、なかった。
 松澤にとってこの俺は、ああいう顔を見ていいような人間ではないはずなのだ、絶対に。
「……う、わ、あ」
 どうしていいかわからずに、ズンズン布団を掘り進む。身体《からだ》を丸め、頭を抱える。腹の奥から喉元《のどもと》まで、なんともいえない苦いものが込み上げていた。俺はただ、うわあ、うわあ、とうめき続けていた。
 そして――

 ――どんな夜でも、やがては明けるということを知る。
 早朝。
 六時半の空は、今日《きょう》も快晴。
 いつもの石段に腰をかけ、いつものように空を見ながら、俺は松澤を待っていた。シューズの紐《ひも》もきつめに結び、走る用意も万端だ。
 結局、こうするしかなかったのだ。
 一晚中、うめき、悩み、考えた結果がこれだった。
 松澤と会うのは恐ろしかったし、松澤が来なくなったらどうしようとも思った。逆に俺が来るのをやめても、松澤はそれほど気に止めないだろう、とも思った。そしてそれもまた、恐ろしかった。
 それでも、「そういう奴《やつ》」にはなりたくなかったのだ。昨日《きのう》あんなふうに別れ、それでここに来るのをやめるような奴にはなりたくない。だってああやって逃げたままでは、この先一生、松澤から逃げ回ることになってしまう。松澤にとって、俺は一生「逃げていった奴」になってしまう。
 だから――
「……どんと来いだ、松澤《まつざわ》」
 明るい空を見上げ、頬《ほお》をピシャリと叩《たた》く。今日《きょう》は少し風が強くて、上空の雲はすごい速さでちぎれながら、薄《うす》青《あお》の空を渡って行く。
 それを眺め、口を引《ひ》き締《し》めた。決めたのだ。いつもどおりに、ここにいる。松澤を待つ。
 気まずい思いもするだろう。どうしていいかわからなくなって、迷ったりもするだろう。それでも、ここに、こうして座って、奴《やつ》を待つ。
 そう決めたのだ。
「松澤め……あと五分して来なかったら、迎えに行ってやる」
「……うっ」
「マンボッ! ……あっ」
 条件反射で合いの手を入れてから、気が付いた。間髪《かんはつ》いれず、
「よう、遅かったな!」
 渾身《こんしん》の爽《さわ》やかな笑顔《えがお》で、俺《おれ》は思いっきり振り返ってやった。
 そこに、奴はいた。
 ちゃんといた。
 おなじみのジャージ姿で、いつものように微妙に嫌《いや》そうな顔をして、そこに立っていた。真っ白な顔も、サラサラの短い髪も、いつもと変わった様子《ようす》はなかった。
 なんというか、安心していた。あれこれ悩んだのが冗談《じょうだん》みたいに、松澤の顔を見ただけで、腹の中のモヤモヤが晴れていくようだった。
 よかった。
 とにかく、そう思えた。本当によかった。いつもどおりの松澤に会えて、本当によかった。
 そして、いつもと同じに軽いストレッチを終え、いつもと同じに步いてコースに入り、いつもと同じにゆったりとしたスピードで走り始めた頃《ころ》。
 異変は唐突に起きたのだ。
「……昨日《きのう》は、驚《おどろ》いた」
「っ!?」
 ギョッ、と心臓《しんぞう》が跳ねる。
 走りながら、松澤が話しかけてきていた。いつもなら無言のままスピードを上げ、さっさと俺を置いていっているはずなのに。
「え、う、……まあ……」
 あまりにも驚いて、松澤の前で松澤化してしまう。
「……田村《たむら》くんも、驚いたでしょ。すごい顔、してた」
「俺《おれ》、が?」
 うん、と松澤《まつざわ》は頷《うなず》く。継がれた声はひどく細い。
「だから……もう、ここには来ないと思った」
 風に吹かれて、弱々しい語尾が砕ける。拾いこぼすまいと、俺は必死に耳をそばだてる。
 松澤はそのまま一旦《いったん》黙《だま》り、しかし、ゆっくりとしたペースを変えることなく、俺と並走してくれていた。松澤は初めて、俺と話をしようとしているのだ。それが理解できたから、
「……すまん」
 なに一つ、ごまかすまい、と。
「俺は昨日《きのう》、おまえのプライベートを覗《のぞ》き見した。……ついでに言うと、高校|受験《じゅけん》したくない、と、おまえがゴネたということも、噂《うわさ》で聞きつけた。……すまん」
 持ちうる限りの誠実さで、真摯《しんし》に松澤に答えようとした。松澤が初めて開いてくれたチャンネルに、嘘《うそ》のない自分で、一番正直な自分で、飛び込みたかったのだ。そして、ごまかしも弁解も決して混ぜずに、やっとそれだけの言葉を絞りだすことができた。
 松澤は、少しの間、黙っていた。
 ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、と、規則正しい呼吸音だけがしばらく続き、やがて、
「……謝《あやま》らなくても、いいと思う」
 ゆっくりとした声が風に溶けた。そして、
「でも、それは……少し事実とは違う」
 そんな言葉で、松澤はまた声を途切《とぎ》らせた。
 少し迷い――問う。
「……事実ってなんですか。……と、聞いても、いいか」
 何度かの呼吸音。
 あのね、という前置き。
 そして、奴《やつ》は言った。
「私、宇宙人なの」
 ……言いやがった。
「故郷の星は、月。もう帰る時が近づいているから、地球での生活も終わりになる。だから、別に、受験が嫌《いや》なのではないの。必要がない、っていうだけのこと」
 言いやがったのだ。そんなふうに。ここにきてまでそんなふうに、松澤はごまかしてチャンネルを閉じて、その気になった俺を鮮《あざ》やかに拒絶してみせたのだ。
 確《たし》かに俺は、こいつのこういうところに不思議《ふしぎ》な魅力《みりょく》を感じていた。興味《きょうみ》を引かれたし、おもしろい女だと思っていた。
 しかし、だ。
「……おまえな……」
 できる限り冷静に、穏《おだ》やかに言葉を発したつもりだ。
「ヒトが真剣に話しているのに、そういう態度はよくないと思うぞ」
 ……本当に、悩んだのだ。うわあ、うわあ、と悶《もだ》え苦しみ、一晚|松澤《まつざわ》のことを考え続けたのだ。
 それを宇宙人の一言で片付けられて、愉快な気分にどうすればなれる。
 もちろん、悩む羽目になったのは自業自得だし、松澤が悩んでくれと俺《おれ》に頼んだわけでもない。俺が勝手に悩んだのだから、それについて松澤に責任を負わせるつもりはまったくない。
 しかし、俺は心から真摯《しんし》に、松澤に向きあおうとしていたのだ。
 それなのに、その返事が、宇宙人か。
 それは、あんまりじゃないか。そんなのってないんじゃないのか、と――
「……田村《たむら》くん。あのね」
 ゆっくりと、松澤はこちらへ顔を向けた。透き通るような大きな瞳《ひとみ》が、俺をじっと見つめ、
「私のことに、真剣になんか、なってほしくない」
 ――喉《のど》が、ヒュ、と、音を立てた。
 そして、
「私はもうすぐ月に帰る。そうしたら、どうせ、地上での記憶《きおく》は全部失ってしまう。田村くんのこともね。だから私のことなんか……」
 そして、だ。
 続く言葉は、もう聞こえなかった。
 俺が足を止めたからだ。
 松澤も、俺が止まったのに気付くと立ち止まり、振り返った。
 俺は、さぞかし間抜けな顔をしていたと思う。
 一瞬《いっしゅん》にして、ドキドキと熱《あつ》く脈打っていた心臓《しんぞう》は凍りついてしまったようだった。冷えて硬く縮《ちぢ》こまって、嫌《いや》な痛みに引きちぎれそうになっていた。
 そのまま俺は、松澤に背を向けた。
 言える言葉など、ぜんぶ腹の底で凍りついた。
 步いてコースを外れた。
 まっすぐにグラウンドから上がって、昇降口を目指した。
 一度だけ、振り返った。
 松澤は、まだ立ち止まったまま、俺を見ていた。
 すぐに再び背を向けた。
 俺は、恥《は》ずかしかったのだ。
 そして――悔しかった。
 真剣だったのは、俺だけか。
 悩んだり、考えたり、……本当にバカみたいだ。バカを見るって、こういうことか。
 もういい。
 いい。
 無人の昇降口で運動靴を払う。グラウンドの土が、フワリと舞《ま》う。
 あいつに、伝えたいものがあった。だから必死に伝えた。そして目の前で突っ返された。それだけのことだ。それ以上でも、それ以下でもない。振られたのでさえ、ない。松澤《まつざわ》は、俺《おれ》に恋さえさせてはくれなかったのだ。
 俺は本当にバカだった。調子《ちょうし》に乗って、大騒《おおさわ》ぎして、一人で盛り上がって……真剣になって。
 悩むことなんかなかった。いや、そもそも、奴《やつ》のところに駆けつける必要なんかなかったんだ。どうせなにもできなかったのだから。
 なにをやっていたんだろうと思う。俺は一人で、なにをジタバタやっていたんだ。そんな俺の姿は、どれだけ滑稽《こっけい》に見えていたことだろう。どれだけ松澤を、困惑させていたことだろう。一刻も早く、松澤の前から姿を消してしまいたかった。
 消えてなくなってしまいたかった。

「あれ? おまえ、今日《きょう》はアレしなかったの? 松澤と一問一答式ランニング」
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「……」
「なあ。……なんか松澤《まつざわ》、おまえのこと見てるけど……」
「……」
「田村《たむら》? おーい、どした?」
「……明日《あした》、アレ、返すから。ビヨンビヨン」
「へ?」
「……持ってくるから。親父《おやじ》さんに、ありがとうって伝えてくれ」
「や、そりゃーいいけど……なあ、ほんとにおまえ、どうしたんだ? 大丈夫かよ」
「……いいんだよ、もう」
「いい、って……全然『いい』顔なんかしてないぞ、おまえ」
「……石ころぼうしを、かぶりたい」
「ええ?」

 気が付けば、期末|試験《しけん》まで残り一週間を切っていた。
 バカなことをやめるには、ちょうどいい頃合《ころあい》だったのだ。
 そして、期末が終われば――

       4

 クーラー。
 アイス。ジュース。カキ氷、すいか、ジュースアイスジュースすいかカキ氷ジュース!
 ク――――ラ―――――!
 ……という生活を二週間も続けると、人はどうなるものであるか。
 回答。
「……うお、お、お……下痢《げり》、します……っ」
 ムワッと蒸し風呂《ぶろ》化《か》したトイレから、匍匐前進《ほふくぜんしん》で這《は》いだした。廊下のフローリングはひんやりと心地《ここち》良《よ》く、思わずそのまま倒れこむ。と、その鼻先を、
「あっ! やだもーあんた、こんなとこで寝ないで! 今からお客さん来るんだから」
 母親のスリッパが、バタバタと音を立てて通り過ぎて行った。
「……お客?」
「孝之《たかゆき》の彼女ですって」
「な、なに?」
 背筋の要領でフンヌ、と顔を持ち上げる。
「孝之《たかゆき》の……彼女だと?」
「そーよ! だからほら、だらしなく転がってないで、部屋に隠れてなさいよね!」
 どういう意味だ。いや、そんなことよりも、
「ちょっと待て。孝之はまだ小六だろうが。なんで彼女がいるんだよ」
「最近の子は進んでるのよ、や~よね~」
「……な、なんたる……」
 絶句。生きる気力を失い、フローリングの床に大の字に伸びた。
 そんな俺《おれ》を完全に無視し、母親は忙しそうにリビングを片付けまくり、お中元の包みを豪快に破り捨てまくり、カルピスを用意しまくりだ。鼻歌付だ。なにやらものすごくウキウキのご様子《ようす》に見える。
「……なあ」
 おもしろくなかった。
「るんるん□ お花こっちに飾っちゃおうかな」
 おもしろくない。
「なあ! 俺、腹|下《くだ》してるんだけど! いたわりとかはないんですかね!」
「なによ、知らないわよ!」
「ええっ!?」
 あまりにあまりな物言いに、こっちが驚《おどろ》いた。あんたほんとに俺の親か。
「自業自得でしょ。夏休みだからって、毎日毎日絵に描《か》いたような暴飲暴食《ぼういんぼうしょく》し続けて。下るのも当然よ。母さん止めたわよ。そんなことよりこの花どう思う? うざい?」
「さ、三児の母がうざいとか言うな!」
「いいじゃーん」
「じゃんも言うな!」
 なぜだか無性に、無性~に、腹立たしかった。起き上がるなりプイ、と背を向け、わざと足音を立てて階段をダッシュ、二階の自室へ向かう。俺のようなダメ人間は、どうせ客にはお見せできない代物《しろもの》だ。隠れていればいいんだろう。
「あ、雪貞《ゆきさだ》ー? お兄ちゃんが俺の辞書知らないかって言ってたけど」
「……買ってやれそんなもん!」
 バムッ、と乱暴にドアを締《し》め切った。ドアに下がった風鈴が、悲鳴のような音を鳴らした。
「ったく……」
 部屋に入った途端《とたん》、冷えすぎていた空気が一気に汗を蒸発させる。つけっぱなしだったクーラーは、俺がトイレで儀式《ぎしき》に臨《のぞ》んでいるさなかも律儀《りちぎ》に部屋を冷やしておいてくれていたらしい。
 ひんやりとして心地《ここち》いいベッドに寝転び、枕《まくら》に顔を埋めた。快適快適。夏休み、最高。腹は下《くだ》れど夏休みは最高。
 の、はず。
 だけど。
 ――欠片《かけら》ほども『楽しく』ないのは、なぜだろう。
「……受験生《じゅけんせい》、だからか……」
 プチ自問自答。だけど多分《たぶん》、正解のはずだ。楽しくないのも、退屈なのも、虚《むな》しいのも、すべては俺《おれ》が受験生だから。
 チラリと横目で窓の外を見た。昼下がりの真夏、太陽は凶悪なほどの熱線《ねっせん》をアスファルトに照射中。もくもくと巨大な入道雲は真《ま》っ青《さお》な空に居座って、絵に描《か》いたような夏休み日和《びより》。締《し》め切っている窓を開けた途端《とたん》、アブラゼミの狂乱の絶叫が溢《あふ》れだすのだろう。高浦《たかうら》を誘って漫画喫茶にでも行こうかと思ったが、この天気ではとても外出する気にはなれない。
 となると、することは一つしかなく。
「……はあ……」
 観念《かんねん》して、受験生らしく勉強机に向かうほかはなさそうだった。
 転げ落ちるようにベッドを降り、重くてだるい身体《からだ》をなんとか椅子《いす》に運ぶ。机に向かい、やりかけの数学プリントを開き、シャーペンを指先で回し――ぐったりと、プリントの上に顎《あご》を乗せた。
 いかん、とは思うのだ。わかってはいるのだ。今こそ天王山《てんのうざん》。天下分け目の関《せき》ヶ|原《はら》。夏を制す者は受験を制す。そろそろ集中してみっちり勉強しなければ――と。
 思いついた。
 やる気を出すためには、まずは情報収集。敵を知れば、おのずと対抗策も練られるはずだ。
 デスクトップの電源を入れ、シャーペンをぽいと投げだす。昨今の受験情報をリアルタイムに引きだしてやり、インタラクティブに情報にアクセスするのだ。これだって立派な受験勉強のうちだ。多分。立ち上がるのを待って、検索サイトへ。キーボードをカタカタと叩《たた》く。
「高校受験……スペース……公立……エンター、と」
 検索結果は、おお、49400件。これはとても見切れんなあ。あとでじっくりと時間をかけて、一件一件|確認《かくにん》しなければなるまい――とはいえ。
 まあ、あれだ。
 せっかくマシンを立ち上げたのだから、他《ほか》の知的好奇心も満たしておこう。うん。
「……巨乳……スペース……サンプル画像……」
 エンタぁ~ん。
「……ほほう……25400件……。ほう……ほう、ほう、……これは……」
 ……なるほど。
 ……。
 ……いざ……鎌《かま》……倉《くら》……。
「――はっ」
 我《われ》に返ると、恐ろしいことに二十分が経過していた。
 時の感覚さえ奪うとは、呆《あき》れるほどのたわわボディめ……。額《ひたい》を拭《ぬぐ》い、双方向メディアの功罪についてしばし思案にくれつつ検索サイトに戻り――
「……」
 カタ、とキーボードが鳴った。
 無意識《むいしき》に、まるで電話をしながら落書きする人のように、勝手に指先はキーを叩《たた》いていた。
 意味は、ない。
 まだ数学に取り組む気にはなれないし、もうちょっとネットで遊んでいたいし、単なる現実逃避《とうひ》というか、暇じゃないけど暇つぶしというか、
「……松《まつ》、澤《ざわ》、小巻《こまき》……」
 ……カタ。
 とにかく意味など、まったく、
「――え?」
 ギクリと心臓《しんぞう》が跳ねた。
 一瞬《いっしゅん》にして、全身の皮膚《ひふ》から温度が失われたのがわかった。まさに血《ち》の気《け》が引いたのだ。
 見慣《みな》れた白い検索結果画面。羅列《られつ》された文字。眺めて、しかし、心は落ち着いていると思う。なのに体が言うことをきかない。
 あれ? あれ? といつしか呟《つぶや》いていた。あれ、あれ、あれ、あれ、と――なぜだ。
 十三件。
 青字の、リンクが張られている見出しには、見慣れたニュースサイトや新聞社の名前。
 二〇〇一年九月十五日。
 歯科医、松澤|博嗣《ひろつぐ》さん(44)。歯科医、松澤|瑶子《ようこ》さん(43)。長男、松澤|和人《かずと》さん(18)。全身を強く打って。見晴らしの悪いカーブ。崖下《がけした》に。長女、松澤小巻さん(12)の回復を待って。歯科医一家の悲劇《ひげき》。
 カタカタカタ、という音で気が付く。マウスをクリックする指が、おもしろいぐらいに震《ふる》えている。止まれ止まれと思っても、全然止まってはくれない。わからない、ちょっと待ってくれ、まだそこを読んでいない、そう思っても、目玉はものすごい速さで文字という文字の上を滑っていく。同姓同名の他人と思おうともした。だけど年齢《ねんれい》は合致してしまったし、こんな名前が二つとあるとは思いにくかった。
 でも、でもでも、死亡事故?
 松澤小巻を遺《のこ》して、一家三人が?
「ば――」
 馬鹿《ばか》をいうな。そんなわけがあるか。
 三年前といえば小六だ。そんな年で自分一人を遺《のこ》して家族全員が死んでしまうなんてこと、あるわけが、
「……っ」
 女のように、口を手で覆《おお》っていた。
 ――あった、のか。
 それが、松澤《まつざわ》の身の上に、起きた事実なのか。
 想像しようとして、しかしできなくて、ゾゾゾ、と全身の毛が逆立ち、俺《おれ》は正気を失った。
 同じだ、こないだと同じだ、やめておけ、と誰《だれ》かが言った。同意だ。やめよう、あいつはまともに俺なんかとは関《かか》わらない奴《やつ》だ、そう言われたじゃないか、なのにまた繰《く》り返すのか、また同じことを、そして後悔するのか――
「――するんだよっ!」
 吐き捨てた。
 猛烈な感覚は、怒りに似ていた。
 椅子《いす》から体を引《ひ》き剥《は》がすように立ち上がった。引出しを漁《あさ》り、連絡網を引っ張りだし、電話なんかじゃダメだ、住所を調《しら》べる。頭に叩《たた》きこむ。結構近い、行ける。
 必死だった。
 飛び降りるように階段を下り、サンダル、いやだめだ、思い直して蹴《け》り飛ばし、スニーカーに足を突っ込み、ヒモを乱暴《らんぼう》にきつく締《し》める。
 玄関の扉を跳ね開け、飛びだした。目も開けていられないほどの炎天下の中、全力で走りだす。グリルで灸《あぶ》られているかのように肌がチリチリと痛んだが、でもそんなのはどうでもいい。もっと速く、もっと速く、動いてくれ俺の足!
 頼むから!
「……ま、つ、ざわ……っ!」
 なにができるかなんてわからない。
 なにもしない方がいいかもしれない。
 でも。
 でも、なんだ。
 松澤
 おまえの顔を見ずにはいられないんだ。おまえの存在を確《たし》かめずにはいられないんだ。走らずにはいられないんだ。どう思われたっていい。そうせずにはいられないんだ。
 走り、走り、走り、走り、いくつかの角を曲がった正面、小さな一軒家が現れた。多分《たぶん》あれだ、しかしなぜだか目がよく見えない、よろけかかるように木の塀に近づき、表札を確かめようと目をこらし――

 と。

「う? あ?」

 極彩色《ごくさいしき》に輝《かがや》く景色が、突如スパーク。ぐんにゃりと曲がり、回転、そして俺《おれ》は、飛んでいた。

 なにかしら。
 世界は唐突にジェットコースターだわ。

「バカだよバカ」
「……はい」
「三十六度の炎天下で疾走したら、誰《だれ》だって体おかしくなるでしょ」
「……はい、そう伝えます」
「とにかく冷やして、水分補給ね。あとは安静にすること」
「……わかりました」
 ――それは確《たし》かに、松澤《まつざわ》の声だった。
 そして、薄《うす》くぼやける視界の中に、白い顔を見つけたのだ。
 あれ、でも……なんだ、松澤。
 おまえ……少し見ない間に、なんだか随分でっぷりと太ってしまって……ああっ!? ななな、なんたるっ!
「か、かわいそうに! おまえ、ハゲちゃったじゃないか!」
「うっ……」
「まんぼっ!」
 ピッカー! と輝く頭部に手を伸ばして、そう叫んでいた。
 そして、一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》があって。
「そ……それ、私じゃないから」
「私です。目、覚めたね」
 二種類の声が左右から聞こえた。サラウンドだ。松澤の声は右。もうひとつは左。そしてハゲは左。俺が手を差し伸べているのも左。すなわちハゲは松澤じゃない。
「なんだ……おまえじゃなくてよかった……」
 しみじみと呟《つぶや》くが、では、左の人は一体誰なんだ? 眩《まばゆ》い頭部にでっぷりしたフォルム。白衣、メガネ、聴診器《ちょうしんき》……薄々読めてきていたが、一応|確認《かくにん》。
「あの……どちらさまで……?」
「医者です」
 当たりました。そして次に確認《かくにん》したいのは、
「ここは……おまえの家か?」
 うん、と松澤《まつざわ》は頷《うなず》いてみせた。
「……洗濯物《せんたくもの》干してたら、ベランダから田村《たむら》くんが走ってくるのが見えたの。そのまま眺めてたら、倒れたの。だから引きずりこんで、お医者さん呼んだ。……日射病になる寸前だって」
 ……日射病。
 あまりの情けなさに、言葉もなかった。どおりで頭がガンガンする。それから膝《ひざ》もなんだか痛い。布団を持ち上げてみたら、見事な擦《す》り傷ができている。まさしく『引きずりこまれた』のだろう。そして、……これはなんだ? スネにはでかい青《あお》痣《あざ》が。
「ごめん。……入口の段差で、一回落とした」
 眉《まゆ》をハの字にして、松澤は黙《だま》った。……いいんだよ、松澤。張り切って家を飛びだして、挙句ぶっ倒れるような限界知らずの馬鹿《ばか》のことなど、落とそうが捨てようが構わないんだよ……。
「保険証もってる? もってないか。往診料もかかるけど」
 布団に潜《もぐ》りこみたいのをこらえ、眩《まぶ》しい医者に答えた。
「……あとで保険証もって払いに行きます……」
「了解。じゃ、二丁目の鈴木《すずき》医院だから。わかるね?」
「……わかります。俺《おれ》の名前は田村|雪貞《ゆきさだ》です……ちなみにそこの君……松澤や」
「……なに」
「……お便所を貸してください。おまえがハゲに見えたショックで、腹の具合がテリブルだ」

 最低。最低。最低だ。
 フラつく足を踏みしめて、借りたトイレからトボトボと帰還《きかん》する。よりにもよって、倒れるか。それも松澤の家の前で。『よりにもより度』にも程がある。
 壁伝《かべづた》いに步きながらも、頭はブン殴られ続けているように痛むし、視界はちらつき、揺れていた。
「はあ……」
 ガンガンするこめかみを押さえ、廊下にしばし佇《たたず》む。
 古く、静かな家だった。
 步くたびにきしむ廊下。フローリングではない板張りの床。どことなく薄暗《うすぐら》いのも目のせいだけではなさそうだ。寝かされていた部屋も今時珍しいような和室だったし、借りたトイレもがんばってがんばってがんばり抜いて、やっとこさ、ギリギリ洋式です! といった具合。
「……步ける?」
 かけられた声に、顔を上げた。
 部屋の入口に、松澤《まつざわ》が立っていた。真っ白な妖精のようだ、と一瞬《いっしゅん》思うが、よくよく見れば、適当としか表現しようのないTシャツに、パジャマ兼用としか思えない膝丈《ひざたけ》のパンツ姿という腑抜《ふぬ》けたナリ。……おまえには男子の前に立つという気概とか……ないのだろうな。
「おう。步ける」
 答えて部屋に戻った。頭の痛みに耐えかねて、虚勢も張れずに、用意された布団に再び体を横たえる。
「先生、帰った。これ飲んで」
「……おお、すごいな」
 ずい、と松澤が差しだしてきたのは、石油用か? と思う程の大容量ポリタンクに入った麦茶だった。
「これ、全部あげる。飲んでいい」
「……おまえの気持ちはありがたいが、丸ごと受け止めることはできそうにない。ふがいない腹具合ですまん」
「……バカだって」
「バカというよりゲリだ」
 手渡されたコップで麦茶を飲んだ。体が求めているのだろうか、あっという間に注《つ》ぎ足し注ぎ足し、三杯も飲み干してしまう。
「……先生が、言ってた。こんな炎天下でうんたらかんたらしたら、うんたらかんたら、で、バカだって」
「……伝えてくれる気があるなら、もうちょっとがんばってくれ」
 あ、いかん。調子《ちょうし》に乗って水分を取ったせいか、また腹具合が……腹が鳴りそうな予感がして、布団の中で身を捩《よじ》った。するとたまたま運悪く『ブッ』と――
「これって……偶然?」
 キャッ、と飛び上がった。
「き、聞こえたか!? 偶然に屁《へ》っぽく聞こえた音! 偶然だからな、今のは脛《すね》と脛がこすれただけで!」
「違う。……田村《たむら》くんがウチの前で倒れたのって……偶然なの?」
 一瞬、ふざけることもできなくなって、グ、と言葉を飲んだ。
 なんと言おう。
「……俺《おれ》、は……」
 ――どうしたかったのか。
「偶然じゃ、ない。……俺はおまえに会いに来たんだ」
「……なぜ」
「とにかく、駆けつけないといけないって……そうだ、俺《おれ》は……」
 そのときスッと、目の前が晴れた気がした。なぜ、松澤《まつざわ》に会いに来たのか。そう問われて、唐突にすべてを理解したのだ。
 なぜ自分はここまで走ってきたのか。なぜあんなにも、あせったのか。
「……俺は、多分《たぶん》、三年前のおまえのところに、駆けつけたかったんだ」
 その瞬間《しゅんかん》、松澤が息を飲んだのがわかった。気の毒なぐらいに、細い肩がビクリと震《ふる》えた。俺がなにを知ったのか、理解したのかもしれなかった。
 俺は残酷《ざんこく》だろうか。
 デリカシー皆無《かいむ》だろうか。
 でも。
「……なにを、とは言わない、が……さっき偶然、知ってしまった。それで、『その時』には間に合わないとわかっていても、全力疾走してここまで来てしまった。……ランニングで鍛《きた》えた成果はあったゼ」
「倒れた、じゃない」
 か細い声でそれだけ言うと、松澤はゆっくりと俯《うつむ》いた。サラサラと零《こぼ》れる髪を耳にかける仕草《しぐさ》から、目が離《はな》せなかった。
 そうして、少しの間をおいて、呟《つぶや》いた。
「三年前。……私は、助けを、待っていた」

 ――怪我《けが》自体は、かすり傷程度だったのだと言う。小六だった松澤|小巻《こまき》は『その時』、開いていた窓から放《ほう》りだされ、下草の中に軟着地していた。
 そして、その目の前で、松澤小巻以外の『全員』を乗せた乗用車は、恐ろしい傾斜を転がりながら落下していき、遥《はる》かな谷底へ消えていった。
 たった一人で山道に取り残された時、時刻は二十二時を回っていた。携帯など持っているわけがなかった。真っ暗だった。他《ほか》の車も一台たりとも通らなかった。
 結局、朝の六時になって農作業車が行きがかるまで、松澤小巻はそこにいたのだ。家族の名前を呼びながら、返らない返事を待ちながら、獣《けもの》の声に怯《おび》えながら、夜の闇《やみ》に怯えながら、震えながら、どこにも行けなかったのだ。
 八時間。
 そして、その悪夢のようだった八時間が過ぎたからといって、なにかが解決したわけではなく、むしろ――

 悪夢だったら、よかったのに。
 松澤がそう言った瞬間。
 震《ふる》えた手から、コップが落ちた。中身がなかったのが幸いだった。拾うという考えさえ浮かばないでいたら、松澤《まつざわ》がそれを拾ってくれた。
「……静かでしょう、うち。引き取ってくれたおばあちゃんと二人暮らしなんだけど、おばあちゃん、こないだから入院しちゃってて……今は私一人しかいないの」
 無意識《むいしき》なのか、松澤の指先は、俺《おれ》の布団の端を爪《つめ》が白くなるほどきつく掴《つか》んでいた。俺は言葉もなく、その指先を見つめていた。
「前の、話だけど……高校に進まないって言ったの、覚えてる? あれって、おばあちゃんに、お金のことで迷惑かけたくないからなの。……それと、私には、普通の生活をする気力が、もうないから。学校に通ったり、人付き合いをしたり、そういうのは、もういい。義務教育が終わったら、あとは静かに暮らしていたい。生きるだけのお金を稼《かせ》いで、おばあちゃんの面倒《めんどう》を見て、ただ静かに、って……そう、思うの」
 そして、この俺に、一体なにが言えただろうか。
 今、松澤のために、どんな言葉をかけられただろうか。
 わからないまま、不意に松澤が顔を上げた。
「……田村《たむら》くんは、夢、見る人?」
 どう答えたのだか、自分でもわからない。でも松澤は納得したように頷《うなず》き、
「私、去年の今頃《いまごろ》、パパやママやお兄ちゃん……みんなが月で暮らしている夢を見た。黄色《きいろ》く光る丸い地面に、三角屋根の家を建てて、みんなはそこで暮らしてた」
 その唇に、本当に、本当にかすかな笑《え》みを、浮べて見せた。
「みんな元気で、手を振っていた。……おかしいって思ってもいいけど、私はそれが、みんながくれたテレパシーだって信じてる。ここにいるよ、ここで待っているよ、って、知らせてくれたんだって信じてる。その日以来、帰る家は、本当は月にあるって信じてる。……ここでの苦しみも悲しみも、すべて忘れて、いつか帰れる日がくるって信じてる」
 笑みの形を作ったまま、その時、薄《うす》い唇が強張《こわば》った。
「……そうでなくちゃ……私は……」
 松澤はそれきり、しゃべるのをやめた。本当の静寂が、日に焼けた古い畳の上に降《ふ》り積《つ》もっていった。
 俺は黙《だま》ったまま、ただ、考えていた。
 そうでなくちゃ。
 私は。

 どうなるんだ。松澤。

「――あ、なんだ雪貞《ゆきさだ》、どこ行ってたんだよ。もうメシだぞ、早く座れ。親父《おやじ》ー、ビール何本出す?」
「まず一本! グラスも! 直《なお》も飲むだろ?」
「俺《おれ》はまだ勉強があるからパス。あ! こら孝之《たかゆき》! なにつまみ食いしてんだよ!」
「へっへっヘ! いやあ、今日《きょう》一日、女子のペースに合わせてたら疲れちゃってさー! 腹もヘリヘリ!」
「えー? あの子……なんだっけ? ユリちゃん? 結構モリモリ食べてたじゃない。そうだ雪貞、あんたがキープしてたアイス、あれ、全部この子の彼女が食べちゃったわよ! すっごいでしょー?」
「あ、雪兄、そこのマヨ取ってー」
「雪貞は飲むよな? ほら、晚酌《ばんしゃく》付き合ってくれよー、父さん孤独だよー」
「そうそう、おまえさあ、俺の辞書知らないか? 見つからないんだよ、相変わらず」
 雪貞。あんた。おまえ。雪兄。
 ――そう呼ぶ声がここにあることが、当たり前だと思っていた。
「……雪兄? どした?」
 なくなることなど、考えたこともなかった。
 これが、当たり前だと。
 ここに存在して当たり前のものだと、俺は、
「う……っぐ、……っ」
 ――食卓に、突っ伏していた。
「えっ!? 雪兄!? どしたんだー!?」
「おまえ……どうした、なにがあった!」
「え? やだやだどうしたの! 雪貞!」
「男には、涙を流さないとやっていけん日もあるよなあ。ほれ、飲もう。な、今夜は父さんが話聞くぞ? ……ほれ。なあ?」
 涙が。
 涙が、止まらなかった。
 松澤《まつざわ》は今、どうしているのだろうか。
 家族がいなくなるというのは、どれほどの孤独なのだろうか。
 あの一人ぼっちの家で、一人ぼっちの世界で、一体どんな夕飯をとっているのだろうか。
 笑っているのだろうか。
 幸せだろうか。
 月に帰る日を、待っているのだろうか。
 地上のすべてを忘れられる日を、待ち続けているのだろうか。
 思うたび涙は溢《あふ》れ、こらえることができなかった。
 ――彼女の世界には、悲しみだけしか、ないのだろうか。

「きゃーっ! 雪貞《ゆきさだ》っ!?」

 そのまま、俺《おれ》の体は制御を失った。
 ゆっくり、ゆっくりと、傾いていった。

       5

 ――夜の天には、でっかい満月。
 卵色《たまごいろ》の先に照らされる、永遠のすすき野原。
 松澤《まつざわ》はかわいかった。
 いつものジャージ姿に、ウサギの耳とほわほわのシッポをつけ、ぴょんぴょこ跳ねながらランニングしているのだ。
 その背を追って走りながら訊《たず》ねた。
 おーい松澤。おまえ、どこまで走るんだ?
 ぴょんぴょこ跳ねて、松澤が答える。
「あの家に帰るの。みんなが待ってるから」
 そして指差したのは、夜空に浮かぶまんまるの月。
 あきれ返った。なんてバカな奴《やつ》だと思う。
 一体どうやって月に帰るつもりなんだ。飛ぶための羽根も、ロケットも持っていないのに。
 そんなことにも気付かずに、松澤はひたすら走り続けているのだ。そのうち月までたどり着くと、固く信じて。
 見ていられなくて、叫んだ。
 やめとけ! おまえ、飛べないんだから!
 松澤はしかし、立ち止まりはしなかった。確《たし》かな予感はただひとつ。走り続けていれば、奴はやがて地球の向こう側に落ちてしまう。
 このままではだめだ。それなのに、松澤にこの声は届かない。
 あの長い耳に、俺の声は、聞こえていない。
 救いたかった。
 どうしたらいいんだ。
 必死に考えた。
 どうすれば奴を助けられるのだろう。どうすれば奴はここに留《とど》まってくれるのだろう。どうすれば奴《やつ》は立ち止まってくれるのだろう。
 どうすれば――

「わかったぁぁ―――――っっ!!」
 布団を跳ね上げ、俺《おれ》は両目をかっ開いていた。
 叫びの余韻《よいん》に、心臓《しんぞう》はバクバクと血を押し流していた。
 時計を見る。午前七時。
 開かれた窓からはぬるい風と、早くもアブラゼミの合唱。体は寝汗にびっしょりと濡《ぬ》れていた。
 そんな朝のことだった。
 日射病の名残《なごり》だったのか高熱《こうねつ》を出し、死んだように眠りこけてから二日が経《た》っていた、その日。その朝。
 俺はやっと、あることに気が付いたのだった。

「ちょっと、体は平気なの? どこ行くのよ?」
 玄関で靴を履《は》いていると、母親がバタバタと追いかけてきた。帽子を無理やり被《かぶ》せようとするのを固辞《こじ》してニヤリと笑う。
「天王山《てんのうざん》だ」
「……やだ。変よ、あんた」
 変で結構!
 ドアを押し開き、勢いをつけて門までの階段をジャンプ。炎天下のアスファルトに着地した途端《とたん》、地上を焼き払うような熱射にひるむが、步む足取りに迷いはない。
 道順は覚えている。
 しばらくまっすぐ進んで、酒屋にぶつかったら左折。ネコの溜《た》まり場公園を通り抜け、小学校の塀沿いに進み、少し広めの通りに出たら――
「あ」
 ――信号を渡って右折、のはずだったのだが。
 出会ってしまった。
 奴はまるで奇跡のように、そこに立っていた。
 白いワンピース姿が、二《に》車線《しゃせん》道路の向こう側で、凄《すさ》まじい熱気に煽《あお》られて陽炎《かげろう》のように揺れている。思わず駆けだしそうになるが、信号は赤。車の流れも途切《とぎ》れなくて、
「松澤《まつざわ》ーっ!」
 道路の向かいから、叫ぶしかなかった。
 俺《おれ》の声に気付いたのか、松澤《まつざわ》は驚《おどろ》いたように目を丸くして、熱気《ねっき》に潤《うる》んだ顔を上げた。信号はなかなか変わらない。イライラしつつ、車道越しに声を張り上げる。
「よぉ! おまえ、どっか行くのか!」
 松澤は少し迷ってから、俺の耳に届くように、声を上げてくれた。
「……おばあちゃんの、病院! タクシー、ここまで呼んだの!」
「そうか! ……じゃあ、あんまり時間ないんだな! 俺、おまえんちに行こうとしてたんだけど!」
「なんで!」
 轟音《ごうおん》を上げる大型のトラックが通り過ぎるのを待った。信号は、まだ赤のままだった。
「話したいことが、あるんだ! タクシーが来るまででいいから、今、聞いてくれるか!」
「……うん!」
 あまりの暑さにクラクラしていた。松澤も相当グロッキーなようで、張り上げた大声も、どこか呂律《ろれつ》があやしかった。
 だけど。
 信号も赤だけど、だけど、でも、今。
 今、叫びたかったのだ。
 破裂寸前で、叫ばずにはいられなかったのだ。
 眩《まぶ》しすぎる熱光線《ねつこうせん》の下で、松澤が目を細めているのが見えた。それは茶色《ちゃいろ》くて、透き通るようで、とってもきれいな瞳《ひとみ》なんだ。
 俺は、それが、そんな松澤が、

「大、好き、だーっ!」

 叫んだ。
「うっ!?」
 奴《やつ》は盛大にビクついて、跳ねた。
「マンボ!」
 ――やっと、わかったのだ。
 教室で初めて言葉をかわしてから、もうすぐ一月《ひとつき》が経《た》とうとしていた。
 ランニングを続けたのが一週間。俺が松澤を避けて、一週間。夏休みに入って、顔も見なくなって、二週間。……それだけの時間が、バカな俺には必要だった。
 楽しかったり、苦しかったり、メチャメチャだったんだ。空を舞《ま》うような喜びと、押《お》し潰《つぶ》されるような痛みに、心も身体《からだ》もバラバラになりそうだった。
 そして今、ようやく。
「俺《おれ》はっ……」
 叫んでいた。
 腹の底から。体の奥から。とにかく全力で声を絞りだしていた。震《ふる》えていた。よくわからない液体が、顔中をびちょびちょに濡《ぬ》らしていた。
「おまえが、好きなんだ! おまえが幸せだと思えるためなら、なんだってしてやりたいんだ! 月に帰ったっていいよ! それでおまえが幸せなら、いい! でも、でもだ、アレだ、その、ああっ!」
 ヤバイ、と思った。一台のタクシーが迎車のランプをぎらつかせながらこちらに向かって走ってくるのが見えたのだ。まるで俺たちの仲を裂くように、二人の間に横たわる道をまっすぐに。
 松澤《まつざわ》はといえば、
「……あぅ、う、うぅ……」
 テンパっていたが、そんなもん知るか、こっちだってテンパってんだ。
「ええと、ええと、もしもおまえが月に帰ってしまうとしても、俺は地上の『幸せ』な記憶《きおく》を、おまえに残してやりたいんだよっ! 俺にできるのはそれだけなんだよっ! だから! おまえがそれを忘れずにすむ方法を、教えてくれーっ!」
 叫び終わるのと、ほぼ同時。
 タクシーが松澤の前に止まった。乗らないでいてくれるか、と思ったが、奴《やつ》はあっさりと乗りこみやがった。なんて奴だ、と俺は思った。
 やっと信号が変わる。なりふり構わず走りだす。松澤が乗ったタクシーはまだ停車している。最後のチャンスだ、窓辺に近づいたその瞬間《しゅんかん》、
「……テレパシー、で」
 俺の目の前で、ウインドウが下がった。汗に濡れ、紅潮《こうちょう》した松澤の顔が現れた。
「忘れない方法、受信しとく」
 なにか、返事をしようと思った。おう! でも、任せたぞグズ助、でも、……だが俺がアウアウと呼吸をしている間に、タクシーは走り去って行ってしまった。
 あっという間だった。眩《まばゆ》い路上に、俺はただ一人、取り残されていた。周囲の人目など、そんな恐ろしいこと、確認《かくにん》することができるわけがなかった。

「……う……?」
 はっ、と気が付いた。頭が重い。
 俺はリビングのソファに寝そべっていて――そうだ、遭難《そうなん》寸前で帰り着いて、死ぬ思いでクーラーをつけたところまでは覚えている。涼んでいるうちに、いつの間にか寝てしまったのか。
 恥《は》ずかしくなるような量のヨダレを拭《ぬぐ》い、身を起こした。テレビのついていないリビングはひどく静かだ。誰《だれ》もいないのだろうか、と首をめぐらせたその時、
「やっと起きたわね? ちょっと行ってくるから、留守番よろしくね! どこかから電話入るかも!」
 現れた母親は外出の支度《したく》を整《ととの》えて、携帯を手に、どこかへ出かけようとしていた。
「……どこに行くんだ?」
「もう、聞いてなかったの? あんなに起こしたのに! あんたのクラスの保護者《ほごしゃ》会《かい》ミーティングよ!」
「……なんで。なにそれ」
「クラスの子のおうちで不幸があったんだって! だからお手伝いの話してくる! お兄ちゃんと孝之《たかゆき》が帰ってきたら、夕飯遅くなるからピザでも取ってて!」
 あ、と呟《つぶや》いたきり息が詰まったのは、もしかして、と思いついてしまったから。
 そしてそれはただの勘なんかではなく、もっと確《たし》かな予感でもって、俺《おれ》の息の根を完全に止めようとしていた。
「……不幸、って……それって、ひょっとして」
「松澤《まつざわ》さんちよ! ああもう……どうするのかしら、あそこのお宅、おばあちゃまと二人だけだっていうのに……かわいそうで、もう……」
「お、」
 反射的に叫んでいた。
「俺も行く!」
「だめよ」
 間髪《かんはつ》おかず、容赦もなく、きっぱりとした返事が返ってくる。
「あんたが来てもしょうがないでしょ、手伝いにはならないんだから。こういう時は、とにかく働き手が必要なの」
 俺はソファに座りこんだまま、母親を見送り、呆然《ぼうぜん》としていた。
 そう言えば、そうなのだ。
 ただの見舞《みま》いに行くのに、タクシーをわざわざ呼ぶこともないだろう、普通。

 ――つまり、あのとき松澤は、おばあさんを『送る』ために病院へ行ったのだ。

 おまえ、大丈夫か?
 ただそれだけを、問いたかった。
 手が震《ふる》えるほど緊張《きんちょう》しながら、電話は四回かけた。家の前まで行ってしまったことが、一回あった。
 だけど、結局一度も松澤《まつざわ》の声を聞くことができないまま、丸一日が経《た》っていた。
 そして今日《きょう》。
 夏場だから急ぐのよ――深く意味は考えたくなかったが、そんな母親の言葉どおり、早くも通夜《つや》が行なわれるのだという。
 夕闇《ゆうやみ》が迫った頃《ころ》、向かったのは町内の集会所だった。
 小学生の頃は、兄貴も俺《おれ》も孝之《たかゆき》も、この集会所の書道教室に通っていた。今日、その見慣《みな》れた建物には、鯨幕《くじらまく》とか言うらしい白と黒の幕がかけられて、少し涼しい風には線香《せんこう》の匂《にお》いが混じっている。
「……よう。田村《たむら》」
 提灯《ちょうちん》型《がた》をした灯《あか》りの下で、控えめに手を振っているのは高浦《たかうら》だった。
「よう」
 手を上げて応《こた》えるが、なぜだろう。顔面の筋肉がきしむような気がして、口元を押さえる振りで顔を隠した。
「ついた奴《やつ》から記帳して、お焼香《しょうこう》の列に並べってさ。行こう」
「……おまえも並んじゃっていいのかよ、委員長。クラスの奴ら、まだ揃《そろ》ってないだろ」
「いいんだよ」
 連れ立って步きだし、用意されていたテーブルで、できるだけ丁寧《ていねい》に名前を記した。焼香の列は二列に分かれていたから、その最後尾にそれぞれついた。そして、
「なんていうかさ……松澤、かわいそうなことに、なっちゃったんだな」
 ぽつり、と零《こぼ》された高浦の呟《つぶや》き。俺は言葉もなく、ただ頷《うなず》いた。
 クラスの奴らもたくさん並んでいたが、誰《だれ》一人、ふざけたりはしていなかった。みんな少なからずショックを受けているのだろう。
 連絡網で通夜の件が回されたのは、今朝《けさ》のうんと早い時刻だった。その時に、松澤の家族が一人もいなくなったという情報も付け加えられ、可能ならクラス全員参列、という話になったのだ。
「どうするんだろう、あいつ……。おまえ、松澤の家のこと、知ってたか?」
「……ぼちぼちな」
「マジで? ……いつから?」
「惚《ほ》れてから」
 高浦は少し黙《だま》り、やがて、
「……さようか」
 とだけ。
 そして、俺《おれ》たちは黙《だま》りこくった。
 焼香《しょうこう》の列は順調《じゅんちょう》に進み行き、やがて、目の前にあまり朗らかそうではない年寄りの写真が現れる。松澤《まつざわ》にはあまり似ていない。設《しつら》えの奥には、白い木の棺《ひつぎ》が静かに置かれていた。
 みようみまねで唐辛子《とうがらし》のようなものを摘《つま》み、額《ひたい》に近づけてから隣《となり》の器《うつわ》に移し、頭を下げる。
 顔を上げると、そこに、松澤はいた。
 目が合った。
 松澤の両目は泣いたせいか寝不足のせいか、ウサギのように真《ま》っ赤《か》だった。
「ま……」
 その瞬間《しゅんかん》だった。ずっと言いたかったことがドッと喉《のど》まで溢《あふ》れだしそうになって、俺は口をつぐむしかなかった。大丈夫か。どうしてる。疲れてないか。俺にできることはないか。なあ、松澤。
 松澤――
「……っ」
 どうしていいかわからなくて、俺は黙ったまま、その場に立ち尽くした。高浦《たかうら》に肩を叩《たた》かれても、そこを動くことができなかった。
 なんとかしてやりたかった。
 なにが『なんとか』かはわからないが、松澤のために、なにかしたかった。松澤が少しでも幸せと感じることを、どんな犠牲《ぎせい》を払ってでも、してやりたいと思った。
 そのとき、コロリ、と松澤の茶色《ちゃいろ》い瞳《ひとみ》から、涙の粒が零《こぼ》れ落ちたのだ。
 考えるより早く、身体《からだ》が動いていた。ただ……少し、間違えた。
 多分《たぶん》正解は、そっとハンカチを手渡し、『お拭《ふ》き』と囁《ささや》くことだった。でも俺は、ハンカチをポケットから引きずりだすなり、涙と一緒《いっしょ》に零れそうに見えた鼻水を、おらっ! と、思い切り、拭《ぬぐ》ってやっていた。
「……うぐ……」
「す……すまん」
 松澤は本当に困った顔をして、鼻に思い切り押し付けられたハンカチを手でおさえ、そして、思い切り、
「……かむんかい」
 ズビズバー、と、いきやがった。
「……ごべん。ずっど、かびだかっだかだ…」
「……なにを言ってるかわからんですよ……」
 松澤はズ、ズ、と鼻をすすって仕切り直し、そして。
「……返す」
「……いいよ。やるよ。……そこまでの域には、まだ達することができていない」
「ううん。洗って……絶対、返す」
 絶対。
 そう繰《く》り返し、俺《おれ》のハンカチを自分のポケットにしまいこんだ。
 瞬間《しゅんかん》的《てき》に感じたのは――違和感。
 シンプルに言うなら、なぜそこまで、と。ハンカチ一枚ぐらい、別に『絶対』でなくてもいいはずだ。なぜ松澤《まつざわ》は、わざわざこんな言い方をするのだろう。
 集会所を出ても違和感は薄《うす》れず、松澤の声は、いつまでも耳に張り付いたように残っていた。

 遅くなっちゃった、すぐごはんにするわね。
 そんな声が聞こえてきて、俺は初めて時間の経過に気が付いた。保護者《ほごしゃ》会《かい》で通夜《つや》の手伝いをしていた母親が、ようやく帰宅してきたのだ。
 まったく腹も減らないまま、砂を噛《か》むような食事を済ませ、部屋に引きこもる。
 勉強どころか、テレビにも、音楽にも、マンガにも、どんなことにも、集中することができなかった。
 ベッドに寝転び、天井《てんじょう》だけを見つめていると、嫌《いや》な考えばかりが浮かんだ。それをひたすら打ち消して、上書きするように楽しい想像をする。松澤を海に誘ってみようか、とか、お祭りに誘ってみようか、とか、受験生《じゅけんせい》らしく図書館《としょかん》で勉強デートもいいかもしれん、とか――勉強?
 そうだ……松澤はどうするんだろう。高校受験はできるのだろうか。
「……やめだ、やめ、やめ」
 枕《まくら》に思い切り顔を埋め、やり直し。そうじゃなくて、そうでは、なくて、もっと楽しいことを、なにか――
「雪貞《ゆきさだ》? 起きてるか?」
 唐突にドアが開かれた。
 いつもどおりにノックもなしに、顔を覗《のぞ》かせたのは兄貴だ。つけたい文句は多々あるが、今は会話をする気力も湧《わ》かない。布団に潜《もぐ》りこみ、
「……なんか具合悪いから、もう寝るところだった。電気消してくれ」
 とだけ答える。しかし、
「いや、まだ寝るな。客が来てるぞ」
 意外な言葉に、顔を上げた。
「……客? 俺に?」
「松澤さん、だって。今日《きょう》お通夜があった家の子だろ? 出てやった方がいいんじゃないか?」
「なにっ!?」
 跳ね起きた勢いで、布団がふっとんだ。
 兄を押しのけ、ほとんど転がり落ちるように階段を駆け下り、玄関まで瞬間《しゅんかん》移動(気持ちの上では)し、そして、見た。
 松澤《まつざわ》が、そこにいた。
 数時間前と同じ制服姿のまま、うちの玄関に突っ立っていたのだ。
「……よう。いい夜だな」
 あせった余韻《よいん》は一瞬で消し去り、平静を装って片手を上げて挨拶《あいさつ》する。
「本日はごれ、ごれ、ご列席……うんたらかんたら」
「わからないなら、言わんでいい」
 松澤が黙《だま》る。俺《おれ》も黙る。さあどうしよう、部屋に通すか、いや待て脱いだパジャマが蛇腹《じゃばら》状《じょう》にほっぽってあるし、いやいや、などと猛烈な勢いで考えていると、
「やだやだやだ、大丈夫? お元気?」
 突如母親が姿を現す。
「疲れたでしょう? 食欲は? なにか食べる? おにぎりは? そうねおにぎり作ろうか!孝之《たかゆき》ー! ごはんの残り見てー!」
「いえ、あの……田村《たむら》くんに用事が……」
「んーっとお茶碗《ちゃわん》二杯ぶんぐらいか……おぅっ!? 雪兄のカノジョ!? うひょー直兄《なおにい》ちょっと来てー! カノジョだってさー!」
「あの……私……」
「えっ!? 彼女だったのか!? なんだおまえ結構やるんだなあ、見直したよ。ちょっと親父《おやじ》来てみろよー!」
「田村くんに……」
「えっ? なになに? 彼女? 雪貞《ゆきさだ》の? ビール飲む?」
 ――やめてくれ。
 松澤ときたら口下手《くちべた》なうえ、今はひどい疲労状態にあるのだ。それがこの家に取りこまれたら、二度と生きては帰れまい。
「……外で話そう。そこに公園があるから」
 そそくさとサンダルを突っかけ、松澤を促して玄関を出る。そして、
「足元、階段だから気をつけろよ」
 そう言った途端《とたん》だ。
「雪兄~っ! ああああ~~~っ!」
「っ!?」
 ずざーっとマンガのような音がして、俺と松澤の傍《かたわ》らを、孝之が回転しながら落下してきた。声も出ないほど驚《おどろ》いたが、孝之はまるで魔法《まほう》のように、スタッときれいに着地していた。さすがだ。そして、
「うおー驚《おどろ》いた! ほら、コレコレ! コレ持っていかなきゃ話になんないっす!」
 差しだされたのは、あまりに家庭的なスーパーのビニール袋。その中身を確認《かくにん》し、
「……あのなあ。松澤《まつざわ》は今、喪中《もちゅう》なんだぞ。こんなゴキゲンな真似《まね》ができるか」
 渋面《じゅうめん》を作ってつき返そうとしたその時。松澤はそれを覗《のぞ》きこみ、あ、と声をあげた。
「……すごい。何年ぶりだろう……いいな」
「ヘイもってけ」
 川面《かわも》から鮭《さけ》を跳ね飛ばす熊《くま》の動きで、孝之《たかゆき》の手に渡りかけていた袋を松澤にパスした、前言《ぜんげん》撤回《てっかい》、孝之グッジョブ。

 いつかの夢で見たような満月に、小さな公園は優《やさ》しく照らしだされていた。驚くほど風はひんやりしている。
 俺《おれ》達は水飲み場のそばに陣取り、まずライターを取りだしてから、
「好きなの選んでよし」
 袋ごと松澤に手渡した。
 その中身は、孝之が彼女と遊んだ残りだという花火のセットだった。なかなか気がきく弟だ。バケツなどの消火セットがないあたり、若者の無軌道さを感じもするが。
「選んだか?」
「うん」
「好きなのあったか?」
「うん!」
 妙にきっぱりと、松澤は頷《うなず》いてみせる。
「じゃあ俺は……これにしよう」
 いくら松澤がいいと言っても、やはり喪中にかわりはない。花火だなんだと騒《さわ》ぐのも気が引けて、俺は一番控えめな紙のこより――線香《せんこう》花火を引っ張りだした。静かな夜の公園で、小さな火の玉をそっと眺めるのもなかなか風流なものだろう。
「じゃあ、火、つけるぞ」
 パチ……パチ……。
 ズゴォォォォォッドルンドルン!!
「……松澤……?」
「んぅ!?」
 ヒュゥンッヒュゥンッゴゴゴゴゴッ!!
「……その、おまえが持っている、七色《なないろ》の爆炎《ばくえん》を噴《ふ》き上げる極太《ごくぶと》棒《ぼう》は、なんだ」
「……華《か》、撃《げき》、壮麗《そうれい》、爆龍《ばくりゅう》、炎《えん》……だって?」
「それは、手に持って、いいのか」
 俺《おれ》の声は、爆音《ばくおん》に掻《か》き消された。

 松澤《まつざわ》好《ごの》みの極太《ごくぶと》な奴《やつ》は、結局それ一本しか入っていなかった。
 俺達は並んで和式便所スタイルでしゃがみ、残りの線香《せんこう》花火《はなび》や、夜にやっても本当に意味のないヘビ玉などを地味に消化していった。
 やがて松澤は、小さなため息のように、
「あのね……田村《たむら》くん」
 声を洩《も》らした。
「なにかね」
「……忘れそうだったけど、これ……」
 松澤はポケットを探り、見覚えのあるハンカチを差しだしてくる。
「……さっきは鼻、かんじゃってごめんね。急いで洗って、乾かしたから……これを返しに来たの」
 受け取って、
「なんだ、こんなモン。おまえは今忙しいんだから、いつでもよかったのに」
 ――などと言いつつ。こんな時だというのに、ニヤ、と口元が緩《ゆる》みかける。
 よかった。
 鼻水を拭《ふ》いてやって、本当によかった。不謹慎《ふきんしん》だとは思いつつも、噛《か》み締《し》めるようにそう思っていた。だって松澤に会えたのだ。松澤から会いに来てくれた。なんとそれから花火までしている。夜の公園に二人きりだ。みんな見てくれと叫びたかった。本当に、本当によかった。
 若干《じゃっかん》生乾き感のあるハンカチをポケットにしまい、しかし、ふと思う。
 よかったにはよかったけれど、なにか妙だ。なぜ松澤は、こんなに急いだのだろう。なぜ今日《きょう》、こんな時間に、わざわざ持って来てくれたのだろう。『絶対返す』と力んでいた、通夜《つや》での松澤の声が蘇《よみがえ》る。あの時の違和感も、いまだに耳の底に染み付いたままになっている。
 単に律儀《りちぎ》、というにはあまりにも不自然な気がしていた。絶対返す、と誓ったところで、それが明日《あした》ではいけない理由はどこにあるんだ?
「それと ひとつ、どうしても、聞きたいことがあるんだけど」
 少しかすれた声。
 頭をブンブンと振って、浮かび上がりそうになった想像を散らした。無理やりにすべてを忘れ、顔を上げる。
 俺が持つ線香花火が、松澤の頬《ほお》を照らしていた。オレンジに光る、柔らかな曲線《きょくせん》で描かれたその横顔は、本当に綺麗《きれい》だった。
 半ば見とれながら、唇が語りだすのを待ち、
「……ランニング。なんで、来なくなったの」
「あ……っちィ!」
 火の玉が、落ちた。
 落ちた火種《ひだね》はもう片手の甲をかすめていた。火傷《やけど》したかもしれない、と思いつつも、たっぷり三秒は身動きもできず、唖然《あぜん》と口を開いていた。
「……なんで、って……おまえ。本当にわからないのか……?」
 あの日。あの朝。
 今でも忘れない。真剣に伝えた思いを、すべて受け取り拒否してみせた松澤《まつざわ》の背中を。
「そりゃ今はなんとも思っちゃいないけど……あの時ああ言ったおまえの気持ちも、なんとなくならわかる気がするから。でもあの時は……あの場合は、ああ言われて俺《おれ》はどんな顔しておまえの前に現れりゃ――な、泣くなよ!」
 松澤は、泣いていた。
 地面に尻《しり》をついて座ってしまい、その膝《ひざ》に顔を押し付け、隠しようもない泣き声を上げていた。まずい、と思う。泣かせてしまった。言い方がきつかっただろうか、いや、でも、だって……
「わ、わかってる……」
 跳ねる息を抑えながら、松澤は言った。
「ほんとは私だって、わかってる……私が変なこと言って、田村《たむら》くんの言葉に真剣に答えなかったから、それで怒らせちゃったんだってわかってる……っ」
「松澤……」
 松澤は、本当にちゃんとわかっていたのだ。そして。
「こ、後悔……してるの。あの日……私が怒らせちゃったあの日、田村くんが来てて、嬉《うれ》しかった。でもっ……嬉しいのはダメって思ったの、なくなるのがこわくなるから、だからダメって思って……私あせって……それであんなこと言っちゃって……後悔、してるのっ」
 俺は松澤の震《ふる》えるうなじを見つめ、声も出せないまま、奴《やつ》の言葉をゆっくりと反芻《はんすう》していた。
 嬉しいのは、ダメ。
 なくなるのが、こわくなるから。だからダメ。
 ――そう、言ったのか。今、おまえは、そんなかわいそうなことを言ったのか。
「あ、あんなこと、言わなきゃよかった。田村くんを怒らせて、初めて私、それがつらいってことに気が付いた。あのまま田村くんが来続けてくれてたら……あのまま、ケンカなんかしないままで夏休みを迎えていたら……っ、私|昨日《きのう》から、そればっかり、考えてっ……」
 あの時の松澤は、会うことが嬉しくなると失うことが怖くなるから、と、周囲から人を……この場合は俺を、排除しようとした。
 その結果、俺は松澤の存在を忘れ去ろうと、極力姿さえ見ないようにした。俺がようやく松澤を理解したのは、それから三週間が過ぎた頃《ころ》だった。
 そして松澤《まつざわ》は、その三週間を後悔し――今。
「好きって、言って、くれたよね」
 今、泣きじゃくっていた。
「……おう。言ったとも」
「あれは、夢じゃ、なかったよね」
「……現実だとも」
「嬉《うれ》しかった……ほんとに……でも……っ!」
 膝《ひざ》に顔を埋め、薄《うす》い背中を震《ふる》わせる。
 ほとんど聞き取れない声で、懸命《けんめい》に喚《わめ》く。
「……遅かったの。間に合わなかったの。田村《たむら》くんが私をわかってくれて、私を好きって言ってくれて……せっかくこれから、また始まるかもしれなかったのに。あの頃《ころ》みたいに楽しみな日々が、これから始まるのかもしれなかったのに。……これから、だったのに。もう……ダメなの」
 これから、これから、と繰《く》り返す松澤の声を、俺《おれ》は黙《だま》って聞いていた。それは全部|潰《つい》えたのだと、松澤にしかわからない言葉で繰り返す声を。
「全部、遅かった……昨日《きのう》で全部、変わっちゃった」
 松澤は泣き崩れ、その声は涙と一緒《いっしょ》に地面にポタポタと吸いこまれていった。
「せっかく、せっかく、せっかくの、……最後の、夏休みだったのに……あたしは自分で、全部、ダメにしちゃった……あの時あんなこと言わなければ、せめて昨日までは、一緒にいられたのに……っ」
「……へい松澤。まっちゃんよ」
 松澤の背にそっと触れた。制服越しの背中は、こわいぐらいに熱《あつ》かった。ポンポンと叩《たた》き、苦しげな息が整《ととの》うようにと祈り、
「……俺は今、すごくおまえの発言にびびっているんだが。嫌《いや》な予感がするんだが」
 声を震わせまいと、必死だった。
 本当に、こわかったのだ。
 遅かっただの、ダメにしただの、せめて昨日までは、だの――そんな松澤の言葉が、漠然としたいくつかの不安を、一本の線《せん》でつなげていくような気がしていた。
 ハンカチを貸した時に感じた、絶対返す、という言葉の妙な違和感。なんでわざわざ今日《きょう》なんだという単純な疑問。それらに示された答えは、つまり――
「……あのね」
 松澤が、ゆっくりと深呼吸をした。鼻をすすり、語る準備を整えたようだった。
 やっぱり、という思いと、ちょっと待てよ、という思いが、腹の中で渦を巻いた。
 やめてくれ、と叫びだしそうだった。聞きたくない、俺はそれを聞きたくない。
「……昨日《きのう》、おばあちゃんが死んじゃった。容態が悪いとは言われてたけど、これまでにも何度かそういうことはあったし……私、本当に死んじゃうなんて、思ってもいなかった」
 やめろ。やめろ、松澤《まつざわ》。言うな。
「病院に行く前に、田村《たむら》くん、私が好きって言ってくれたでしょ……? 色んなことを全部わかってくれて、それでも好きって……それで仲直りできて、また会えるようになるんだって思ったの。そしたら私、ランニングの時のこと、あやまるつもりだった。ずっと後悔してたから、二度とあんなこと、言わないつもりだった。それで、それから……夏休みだから……夏休み、一緒《いっしょ》に過ごせたら、ってタクシーの中で……でも、病院についたら……。……なんで、こうなんだろう。なんで私、いつも、うまくいかないんだろう。これまでダメにしちゃったぶんまで、せっかくこれからって思ってたのに……これからって……っ」
 頼む、その先を言わないでくれ。薄々《うすうす》と、わかってはいるんだ――
「田村くん。私ね」
 涙と鼻水でズルズルの顔をまっすぐに上げ、松澤は俺を見た。泣きすぎて真《ま》っ赤《か》になった瞳《ひとみ》に、映りこんだ月がゆらゆらと揺れていた。それはとても綺麗《きれい》だったけれど、でも。
「遠い親戚《しんせき》の家に、行くことになったの。すごく、遠いところ。明日《あした》、告別式が終わったら、そのまま」
 ――言うな。
「だから、さよなら」
「……っ」
 その手を、ひっ掴《つか》んでいた。
 ひどく冷たい、小さな手だった。
「田村くん……っ」
「せ、せっかく、って言ったな! これからって、おまえは言ったな!」
 叫んだ声も、身体《からだ》も、みっともなく震《ふる》えていた。だけど溢《あふ》れた言葉はもう塞《せ》き止められなかった。
「それはもうなくなるのか!? これから続くはずだったものは、……『せっかくのこれから』は、離《はな》れてしまったら全部消えてなくなるのかよ!? それでさよならかよ!? 終わりなのかよっ!」
 松澤の顔は、見られなかった。
「それなら俺は、離さないからな! 行かせないからな!」
 おまえの『せっかくのこれから』がなくなってしまうなら、この手は離せない。絶対に離せない。
「……行かせないからなぁっ!」
 松澤の手を掴んだまま、俺は情けなく泣き声を上げた。
 だって松澤《まつざわ》には、羽根もロケットもない。月には帰れない。つらくても悲しくてもこの地上で生きて行くしかない。でも俺《おれ》は、ただ息を吸ってメシを食って、という「生きる」ではなくて、松澤にはもっと違う生を、忘れたい記憶《きおく》なんかじゃないなにかを――『せっかくのこれから』を、ちゃんと生きてほしかった。俺が望むのは、それだけだった。その傍《かたわ》らに、たとえ俺がいなくても、松澤には生きていてほしかった。
「……ばかたれが……っ! 離《はな》れたって、俺は、おまえのことを絶対忘れたりしないのに……っ! そんなことで、『せっかくのこれから』が、終わるわけなんかないだろうが……っ!」
 その時、かすかな声が聞こえた気がしたのだ。
 それは本当に小さな声で、まず「そうか」と。それから、「じゃあ、私も忘れない」と――
「わ……っ」
 耳を澄《す》ませた一瞬《いっしゅん》。
 松澤を補まえた手の甲に、鋭《するど》い痛みと柔らかな感触が走った。驚《おどろ》いて目を見開いた。
 火の玉を落としたできた小さな火傷《やけど》を、松澤は動物のようにペロ、と舐《な》めたのだ。思わず指から力が抜けた。
 その隙《すき》をついて、松澤が立ち上がる。背中を向けて駆けだし、その素早《すばや》さたるや脱兎《だっと》の如《ごと》し。
 そして。
「田村《たむら》くんっ! ……私、わかった! 今わかった! ……決めた!」
 振り向いた。
 ズルズル顔のままで、力いっぱい笑っていた。本当は――三年前までは、ごく当たり前に活発な奴《やつ》だったのかもしれない、と、俺は奇妙に冷静に考えていた。
 松澤は両手をウサギの耳のように頭にあてる。目を閉じる。モゴモゴとなにか唱える。どうした松澤、悲しみのあまり、とうとうイカれてしまったのか。
「……テレパシー、受信っ! 完了っ! 結果発表っ!」
「か……かわいそうに!」
 さらに激《はげ》しく涙が溢《あふ》れた。だが松澤はやっぱり笑っていて、
「月に帰っちゃったら、やっぱり、地上のことは全部忘れてしまうんだって! だから……」
 ウサギの耳にしていた両手を、頭上に。
 思いっきり伸ばし、天の月を抱くように。
「だから、もう少し、地球にいますっ! ……田村くんと離れても、私、がんばってみるっ! 『これから』をここで、生きてみますっ! 忘れません! ランニングしたことも、ウチに来てくれたことも、好きだと言ってくれたことも、花火したことも、……傷つけてしまったことも! 忘れません! たくさんの記憶《きおく》を、ありがとお―――っ! ……こないだ、恥《は》ずかしかったから、仕返しっ!」
 クシャクシャの顔をして、ぴょこん、と跳ねてみせた。
 その瞬間《しゅんかん》、息の根が止まった。
 本当に矢に貫かれたように、圧倒的な衝撃《しょうげき》でもって、心臓《しんぞう》の部分をぶち抜かれていた。
 それは一瞬のことだったが、確《たし》かに俺《おれ》は、その時『悩殺』されたのだ。
 さすがだ松澤《まつざわ》、やっぱりおまえは最高だ、しかし、
「……ばっ」
 叫び返さずにはいられない。
「ばかたれーっ! 俺は、ぜんぜん、恥《は》ずかしくなんか、なぁぁぁぁいっ! なー、めー、んー、なぁぁぁぁ―――っ!」
 ……叫びながら、もしかしたら、と。
 松澤の家族は、本当に月にいるのかもしれない、と思っていた。
 だって松澤の抱いた月は、本当に優《やさ》しく、本当に眩《まぶ》しく、松澤を慈《いつく》しむように光を落としてくれていたのだ。
 笑顔《えがお》で手を振り、步きだす松澤の行く道を、遥《はる》か上空から照らし続けていたのだ。

     ***

 そして松澤はその翌日、遠い町へ引越していった。
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 記録的《きろくてき》な猛暑だった真夏の日々がやがて涼しく落ち着いた頃《ころ》、俺《おれ》は松澤《まつざわ》に手紙を書いた。(ちなみに松澤はとんでもないことに、俺に新住所を教えるのを忘れやがった。執念深《しゅうねんぶか》く担任に聞きだし、マムシのような奴《やつ》だ、などと恐れられた)
『おまえは甘い。あんなもんで話が済んだとは思うなよ。すべてはこれからなんだから、覚えておけ』――というような手紙を書いたと高浦《たかうら》に報告したところ、脅迫状《きょうはくじょう》みたいだな、という感想が返ってきた。
[#改ページ]
<IMG SRC="img/01_119.jpg">
『ま、松澤《まつざわ》……どうしておまえがここに!?』
『えへへ。来ちゃった。これ、渡したくて……クリスマスプレゼント』
 クリスマスイヴの夜。
 帰宅した俺《おれ》を待っていたのは、俺だけのサンタさんだった。ばかやろう、無茶《むちゃ》しやがって……ミニスカサンタのコスプレでは、膝《ひざ》小僧《こぞう》が寒かろうに。

『ま、松澤……どうしておまえがここに!?』
『えへへ。来ちゃった。これ、渡したくて……年賀状』
 大晦日《おおみそか》、カウントダウンが終わろうとしたその瞬間《しゅんかん》。
 ゆく年くる年を見ていた俺を訪ねたのは、俺だけの弁財天《べんざいてん》さまだった。ばかやろう、無茶しやがって……おまえのうちは喪中《もちゅう》だろうに。

『ま、松澤……どうしておまえがここに!?』
『えへへ。来ちゃった。これ、渡したくて……チョコレート』
 バレンタインの夜。
 入試を控えた俺に微笑《ほほえ》みかけたのは、俺だけのパティシエだった。ばかやろう、無茶しやがって……両手の絆創膏《ばんそうこう》は手作りの証《あかし》だろうに。

 ――などということは一切ないまま、月日は百代《はくたい》の過客《かかく》です。
「……へっ」
 空《むな》しい一人笑いを浮かべ、力いっぱい鼻をかんだ。鼻水とともに妄想よ去れ。気合を入れて鼻の下を拭《ぬぐ》い、ゴミは引き出しに挟んだコンビニ袋(すなわち簡易《かんい》鼻紙ステーション)へ。
 横目で見た時計の針は、まもなく二十三時五十分を指そうとしていた。
『今日《きょう》』に残された時間は、残り十分。
 つまりあと十分で今年《ことし》のバレンタインデーは終わり、松澤が俺だけのパティシエになるチャンスは失われ、『あさって』に迫っていた入試は『あした』になるのだった。
「……あ、あした……?」
 あした……。
 不意に、ギクリと心臓《しんぞう》に不協和音。
 公立組はとにかくこの問題集を完璧《かんぺき》にやっておけ、と言われていた。まだ丸々一章分、手付かずの範囲《はんい》があった。
 風邪《かぜ》だけは引くなよ、と言われていた。鼻はグズグズと湿地帯だった。
 落ち着くことがなにより大切だ、と言われていた。貧乏ゆすりは十六ビートを刻んでいた。
 つまり、全然準備はできていないのだ。それなのに。
「あした……!」
 勉強机にかじりつき、シャーペンを握《にぎ》り締《し》めたまま、震《ふる》えること生まれたての仔馬《こうま》の如《ごと》し。俺《おれ》は恐ろしい現実と、ついに今、対峙《たいじ》したのだ。
 入学|試験《しけん》開始時刻はあさっての午前九時。すなわち、あと三十三時間後。猶予《ゆうよ》はたったのそれだけ。目の前には、見知らぬ単語が乱舞《らんぶ》するチンプンカンプンの英語例題が――
「……うわあ! やだ、入試、やだ!」
 錯乱《さくらん》し、ジタバタと喚《わめ》きながら机の裏板を蹴《け》りまくった。
 クラスの誰《だれ》かが言っていたっけ。「高校入試なんて真面目《まじめ》に勉強する奴《やつ》いねえだろー、普通|一夜漬《いちやづ》けだよなー」……言わせてもらおう。そんなわけはない。少なくとも俺は、この田村《たむら》雪貞《ゆきさだ》は、思う存分ジタバタしている。
 小学生時代は昆虫にはまり、あだ名は昆虫博士だった。中学に上がってからは歴史にはまり、『歴史街道』を年間|購読《こうどく》している。地味に生きてきたのだ。地味な趣味《しゅみ》に平凡な成績《せいせき》、目立たぬ容姿で凡人スタイルを貫いてきたのだ。
 こんな小さな凡人野郎が入試を控えてやることといったら、
「やだぁ、やだぁ~! 入試やだぁ~!」
 緊張《きんちょう》のあまりに錯乱することだけだろう――いや! 違う、ノーだ俺! 迷うことなく己《おのれ》の頬《ほお》をビンタした。錯乱している場合でもない。
 正気を取り戻し、うぅ、と唸《うな》る。勉強せねば。一秒を惜しんで、勉強せねば。
 そう、バレンタインどころではなかったのだ。入試です、入試。すぐ目前に迫っているのは高校入試。残り三十三時間。
「……うっぷ」
 重い現実を『残り時間』として認識《にんしき》すると、一気に胃壁《いへき》が熱《ねつ》をもった。思わずデスクライトにぶら下がる貰《もら》い物のお守りに手を伸ばす。溺《おぼ》れる者はなんとやら、だ。握り締めた絹袋の表には、全国的に有名な受験の神様の屋号が金糸《きんし》で織《お》りこんである。
「ま、松澤《まつざわ》ぁ……」
 漏らしてしまったのは、くぅ~ん、と甘える犬のような声音《こわね》。
 松澤――下の名前は、小巻《こまき》。
 定まらない視線《しせん》で電波まじりの言葉を紡《つむ》ぐ、透明な匂《にお》いがする女。俺の妄想の中ではサンタになったり弁財天《べんざいてん》になったりパティシエになったりと大忙しだが、その正体は、(自称)月を母星にもつ宇宙人だ。どうだ、危ないだろう。
 去年の夏、俺は同じクラスの松澤に恋をして、上がったり下がったりの大騒《おおさわ》ぎを体験した。
だが、松澤《まつざわ》の引越しによって大騒《おおさわ》ぎは中断され、今日《きょう》まで宙ぶらりんのまま、月に一往復という穏《おだ》やかな文通だけが『忘れていない』と伝えあう手段となっていた。メール? 電話? 俺《おれ》も松澤もそんなモンは好かん。
 その松澤から郵便物が届いたのは今朝《けさ》のことだった。突然の贈《おく》り物に胸を高鳴らして封を開けると、手紙もなしに、このお守りだけが包まれていたのだ。信心深い俺ではないが、松澤は学年トップの秀才だ。少しはご利益《りやく》があるような気がして、目に付くところにぶら下げてみた。
「……松澤さま。あさってだけでいいので、おまえの偏差値を俺に分けてください……」
 世にも情けないことを念じつつ、長いため息をゆっくりと吐きだす。
 松澤も今頃《いまごろ》同じように、こうやってお守りを握っているのかしら……などとスイートな感情に浸ってみるが、一瞬《いっしゅん》にして我《われ》に返った。ありえない。
 そもそも図抜《ずぬ》けて賢《かしこ》い女だ、高校入試など奴《やつ》の敵ではないだろう。それになにかにすがるなら、夜空の月を見上げつつ、電波テレパシーでも送受信しているはずだ。なにしろ月は奴の母星で、家族が住んでいるのだから。
 空を見上げる松澤の間抜けな姿を想像し、少し笑いたくなる。気が付けば緊張《きんちょう》も忘れているあたり、やっぱりお守りのご利益はあるのかもしれない。
 だけど――
「げ。雪かよ……」
 ふと気が付くと、窓の外には、いつから降りだしたのか雪の切片が埃《ほこり》のように踊っていた。深い夜の暗闇《くらやみ》の中を、街灯の光に照らされて、白いものがひらひらと風に舞《ま》っている。
 あさってまでに止《や》むことを祈りつつ、手の中のお守りをじっと眺めた。
 なんであろうと、松澤が送ってくれたというだけで嬉《うれ》しいのは事実だ。それに実際、今もこうしてすがっている。
 でも、でも、でもですよ。
 ひとつ、明らかにしておきます。
 これはチョコレートじゃありません。
 バレンタインデーなのに、チョコではなく、なんであえてお守りなんだ。贈り物をもらっておいて、勝手にがっかりしている俺がバカなのはわかっている。だけど、二月十四日に好いた女からなにかが届けば、チョコを期待するのが男というものだろう。百步|譲《ゆず》っても手編《てあ》みのマフラーだ。『いきなり手編みなんて、重たいよね……しかもヘタクソだし……ごめんね、こんなプレゼントで』『ばかだな松澤、おまえの手編みマフラーなら首を吊《つ》っても本望だ』『田村《たむら》くん! 私も一緒《いっしょ》に巻いて! 強く巻いてぇ!』……チョコよりこっちの方がいいじゃねえか。いや、そうではなくて。
 ――考えてしまうのは、松澤にとって俺は一体なんなのだろう、ということだ。
 告白はした。断られはしなかった。だけど、付き合ってもいなかった。その辺の話に至る前に、日本列島|縦《たて》に半分という圧倒的な距離《きょり》が俺《おれ》たちの間に立《た》ち塞《ふさ》がったからだ。
 そしてそんな田村《たむら》くんは今、受験《じゅけん》を応援したいクラスメートではあるけれど、バレンタインにチョコレートを送りたい相手ではない。……ということなのか。
 普通、女子という生き物は、二月十四日には好きな男にチョコレートを渡す。自然界の偉大なる摂理がそのように奴《やつ》らの行動を決定付けている。
 ということは、考えられる可能性、その一。松澤《まつざわ》は女子ではない。その二。実は、今日《きょう》は二月十四日ではない。その三。つまり松澤は俺のことを、なんというか、別に好きではな――
「……い~~~~~っ! やめっ!」
 首が取れそうになるほど、激《はげ》しく頭を振った。軽いめまいで強制的に思考停止。ついでに脳からこぼれた英単語は深呼吸で捕獲《ほかく》。
「こんなことを考えている場合ではないのでした!」
 シャーペンを握り直し、ノートに再び視線《しせん》を落とす。危うく、無限ループの自問自答にはまりこんでしまうところだった。
 受験が終わるまでは、難《むずか》しいことを考えるのはやめだ。あんな焦げ茶色《ちゃいろ》をして、トロトロと溶けたり、プリッと固まったりする臭《にお》いの強い物体のことなどにこれ以上振り回されてなるものか。
 気合を入れ直すついでに空気も入れ替えてやる。勢いをつけて席を立ち、鍵《かぎ》を外して窓を開いた。すると痛いほどに冷え切った真冬の夜風が一気に吹きこみ、瞬間《しゅんかん》的《てき》に息が凍ったのと同時――
「なんでだめなの!?」
 唐突に飛びこんできた声に、思わず飛び上がった。
 驚《おどろ》いた。こんな時間に一体なにごとだ? 反射的にカーテンの陰に身を隠す。聞こえてきたのは女の声だ。それもかなりのボリュームで。
「ねえ、先生! お願《ねが》い、お願いだから……これ、これ、一生懸命《いっしょうけんめい》作ったの! あたし……受け取ってくれなきゃ、帰らない!」
 静まり返った深夜の住宅街に、その遠慮《えんりょ》のない声音《こわね》はあまりに場違いに響《ひび》き渡っていた。ただでさえ心は千々《ちぢ》に乱れているというのに、この上俺からわずかな集中力をもぎ取ろうというのは一体どこのどいつだよ。
 驚きは苛立《いらだ》ちに取って代わり、窓の下、我《わ》が家の玄関先を見下ろしてみる。
「先生ってば!」
 そこにいたのは、真《ま》っ赤《か》なダッフルコートを着こんだ女だった。傘も差さず、背中まである長い髪に雪をまとわせて、閉じられた我が家の門にへばりついて大声を上げ続けている。
 そして門を挟んだ内側には、
「……受け取るだけでいいならありがたく頂くけど、それじゃ君は納得しないんだろう? だからごめん、いくら粘られても受け取れない。遅いからもう帰った方がいいよ。ね、送るから」
 百二十パウンド、我《わ》が兄.田村《たむら》直《なお》が。
 先生、と呼ばれているということは、あの赤コートは最近始めたという家庭教師の生徒なのだろう。……ほうほう、これはつまり、年上の家庭教師に憧《あこが》れた少女がバレンタインに自宅に突撃《とつげき》してみちゃったぁ、と。なるほど――なんて近所迷惑な。
「……チョコでもなんでもとっとと受け取って、帰らせりゃいいだろうが」
 なーにが、ね、送るから、だよ。
 バカ兄貴を見下ろし、悪態をつきたくもなる。なにを今更、もったいぶって。
 兄貴は今日《きょう》、すでに紙袋ふたつ分のチョコレートを持って帰ってきているのだ。つまり、とっくに汚れているわけですよ、その身体《からだ》は。ひとつやふたつ増えたところで、なにがどうなるわけでもなかろうに。
 ちなみに弟の孝之《たかゆき》も汚れている。六年間使ったランドセルを、本日、詰め込みすぎたチョコレートでぶち壊《こわ》していた。
 え、俺《おれ》?
 清らかです。もらったチョコの数、ゼロ個。生まれてこのかた、ゼロ個。
 秀才の長男(モテ)、スポーツ万能の三男(モテ)、地味な俺、次男(地味)。これが俺たち、田村三兄弟流。どうだ、かわいそうだろう。
「そんなかわいそうなモノ見るような目であたしを見ないでよ!」
 いや、かわいそうなのは俺だ。
「同情とか、そんなのはいっこもいらないんだってば! あたしは先生と付き合いたいの! ……なんで考えてもくれないのっ……あたしのどこが、だめなのよ!?」
 うるさすぎるからだめなのよ。
「先生のばかぁっ!」
 一層高く跳ね上がった声が、さらに傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な反響《はんきょう》でもって夜の静けさを引き裂いた。耳をおさえ、うむ、と頷《うなず》く。限界だ。
「よそでやれ!」か「通報しました!」か、とにかく怒鳴《どな》り返してやろうと窓から身を乗りだして――その時だ。
「むっ……!?」
 垣間《かいま》見《み》えたのは、赤コートの顔。
 吸った息を、飲みこんでいた。
 かなりの美少女だったのだ。その美貌《びぼう》には、怒鳴り声を瞬間《しゅんかん》冷凍してしまうぐらいの威力はあった。
 雪の中でもなお白い小さな顔に、ほわっと赤く色づくのは頬《ほお》と鼻先のわずかな血色《けっしょく》。くしゃくしゃに乱れた前髪の下では、杏《あんず》型《がた》をした大きな瞳《ひとみ》がきらきらと星のように光っている。華奢《きゃしゃ》な顎《あご》も丸い額《ひたい》もすべてが繊細《せんさい》な曲線《きょくせん》でできていて、どこをとっても特別に綺麗《きれい》な出来をしている。
 つまり、他《ほか》の凡百《ぼんぴゃく》の人間とは、見た目のすべてが圧倒的に違いすぎた。見てみろ、俺《おれ》の適当な顔を。同じ人類《じんるい》でここまで違っていていいのか? あんなご面相をもっているなら、あれで一生金が稼《かせ》げるだろう。
 ついつい怒鳴《どな》ることも忘れて、鑑賞《かんしょう》モードに入ってしまった。あんな女もこんな町に住んでいたのか。
 だがウチの兄貴は『あんな女』を振る算段らしい。もう一度だけ「帰りなさい」と静かに言うと、それきり口を閉ざしてしまう。降りしきる言の中で沈黙《ちんもく》がしばし続き、そして、
「……もういい。もう……もう、ほんとに、いい!」
 先に根負けしたのは赤コートの方だった。
 叫ぶようにそう言うと、身を翻《ひるがえ》して走りだす。誰《だれ》がどう見ても失恋のご様子《ようす》だ。
 兄貴は遠ざかる背中をしばらく見ていたようだが、やがて白い息を残して俺の視界から消えた。ドアの音がして、家に入ったのだとわかる。
 いやはや、と首を振り、嘆息。あんな美少女を振ってしまうとは、兄貴も偉くなりなさったものだ。それに引き換え俺なんか……俺は、なんだ。
 受験生《じゅけんせい》だ。
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「……そういえば、こんなことをしている場合ではなかった……」
 ようやく我《われ》に返り、慌てて窓を閉じた。そうだ、俺《おれ》は受験生《じゅけんせい》だった。それもかなり危なめなところにいる受験生だ。
 部屋は静寂を取り戻し、エアコンのかすかな唸《うな》りの中を冷えた両手を擦《こす》りあわせながら机へ戻る。
 なんの因果か気が付けば、肉親の恋愛模様を最後まで見届けてしまったではないか。美少女を見られたのはラッキーだが、受験直前に一体なにをしているのやら、だ。
 大幅な時間のロスを深く反省しつつ、一度大きく伸びをした。そしてノートを広げ、勉強の姿勢にようやく戻る。
 やりかけの問題集に視線《しせん》を落とし、「さーてと」、などと独り言を呟《つぶや》き、そのついでに、
「あれが松澤《まつざわ》だったらよかったのにな」
 ともう一言。
 別に深い意味はない。ただ、あんなふうに松澤が訪ねて来てくれたら、どれだけ嬉《うれ》しいだろうと思っただけだ。別に、ステーキ食いたいな、でもよかったし、電気毛布ほしいな、でも、相撲取りに触りたいな、でもよかった。思い浮かんだ欲求をなんとはなしに口にしただけ。それだけ。脳みそはちゃんと問題に取りかかろうとしていた。
 ――だが、俺の不真面目《ふまじめ》な独り言は、学問の神の怒りをかっていた。いつまでたっても勉強を始めないダメ人間としてついに認定、裁きのスイッチを押させてしまった。
 らしい。
 ガラスが割れた音がして、文字どおり俺は飛び上がった。
 それは雷が直撃《ちょくげき》したかのような凄《すさ》まじい大音声《だいおんじょう》で、声にならない声で叫びながら、椅子《いす》を倒して反射的に振り返る。
 そして、目《ま》の当《あ》たりにしたのは、
「……ええぇっ!?」
 惨劇《さんげき》だった。息が止まる。
 すぐ傍《かたわ》らの窓ガラスが砕け散り、鋭《するど》い破片が部屋中に飛び散っているのだ。
「な……な……な……」
 あまりの出来事にわななく声を、吹きこんだ雪混じりの冷たい風が散らした。
 絨毯《じゅうたん》の上、ガラスの破片の中に転がっているのは、石。拳《こぶし》ほどもある、石ころ。
 つまり、これが投げつけられて、窓ガラスが割られたらしい。でもなぜだ? 当たってたら死ぬぞ? まさか? ゴルゴが? 俺を? 狙《ねら》って?
 呆然《ぼうぜん》としつつもなんとか立ち上がり、とにかく割られた窓を確認《かくにん》しようとしたところをさらなる不幸が襲《おそ》った。
「うがっ!?」
 頭蓋骨《ずがいこつ》に響《ひび》く、あってはならないダイレクトな衝撃《しょうげき》。目の前には見えてはならない火花。気が付けば、すっ転ぶように尻餅《しりもち》をついていた。
 割られた窓ガラスからなにやら硬いものが投げこまれ、顔面にぶち当たったのだ。顔面というか、鼻骨に。
 座りこんでしまった俺《おれ》の傍《かたわ》らを、凶器はサイコロのように転がっていく。
 そいつは綺麗《きれい》に包まれた洒落《しゃれ》た木箱で、手にとって見ると『田村《たむら》先生へ』とメモがつけられていて、匂《にお》いをかいでみると甘くって、それはチョコレートの匂いに他《ほか》ならなくて、
「……な、んたる……っ」
 うめき、そして、絶句した。
 一連の出来事を理解し、俺は絶句するしかなかった。
 何者かが石でガラスをぶち破って、チョコレートを俺の部屋に放《ほう》りこみやがった。
 よろめく足を踏みしめて立ち上がると、屋内だというのに氷点下の風が全身を叩《たた》く。窓の向こうには、白い雪。夜の住宅街を走り去るのは学問の神でもゴルゴでもなく――さっき帰ったはずの真《ま》っ赤《か》なダッフルコートの女。赤い背中は振り返りもせずに、全力疾走で逃げて行く。
 なんでだ。
 なあ、なんで、こんなことをするんだ。
 呆然《ぼうぜん》としたまま怒りも忘れ、痛む鼻に手をやった。触れたのは、ヌルっとした温かな感触。なにかしら。その手を見てみた。
「ぬあぁぁぁぁぁーっ!」
 赤い。血だ。鼻血だ。鼻血だと!?
 受験生《じゅけんせい》なのに!?
 割れた窓からは雪が吹きこみ、ガラスの破片が散らばる絨毯《じゅうたん》はたちまち白く色を変えていく。
 時計を見た。
 0時を回った。
 入試は明日《あした》だ。
 明日なのに。明日、入試なのに。
 俺は鼻血を出し、真冬の雪風に吹きさらし、ガラスには大穴が開き、絨毯には雪が積《つ》もり、風邪《かぜ》気味で、問題集は終わっていなくて、松澤《まつざわ》はチョコをくれなくて、明日は入試で、そして……落ちたらどうしよう。
 どうしよう? どうなるの? やだ、こわい。こわい。
 錯乱《さくらん》……錯乱したい。
「あ、あわわ……」
 するぞ?
 いいんだな?
 あわわわわわ!
 あわわわわわわわわ!
 あわわにゃにゃにゃにゃにゃー!

「にゃお―――――っ!」

 ――そう、月日は百代《はくたい》の過客《かかく》にしてなんたら。
『拝啓、松澤《まつざわ》よ。首尾はどうだ。なんの話、などとごまかすなよ。』
 幾度かの夜が過ぎ、同じだけの朝を迎えた。
『そっちも合格発表は済んでいるはずだ。』
 悪夢の日の記憶《きおく》ももはや遠く、気がつけば春はすぐそこだ。
『どうなんだ。おまえの進路を教えてみろ。』
 そして。
『ちなみに俺《おれ》は――』

       1

 出会いが億千万の胸騒《むなさわ》ぎなら。
 再会の胸騒ぎは、いかほどのものか。

     ***

「じゃあ出席番号順に、名前と出身中学と、あと簡単《かんたん》な自己紹介をしてもらおうかしら」
 自己紹介ですって――。
 浮かれ気分は一気に霧散《むさん》、憂鬱《ゆううつ》とともにシャーペンの尻《しり》を噛《か》み締《し》めた。自慢じゃないが、俺は自己紹介が大の苦手だ。
 四角く切り取られた窓の向こうは、内心とは裏腹《うらはら》の見事な晴天。散り際の桜が風に舞《ま》い、真《ま》っ青《さお》な空を流れて行くのが見える。
 小春日和《こはるびより》(誤用)のこのよき日。晴れて迎えた入学式の後には、高校生活最初のホームルーム(自己紹介つき)が待っていた。
 出席番号順に決められた席は、中央に近い列の前から二番目。仰ぎ見れば、見慣《みな》れぬ天井《てんじょう》。尻《しり》の下には座り慣《な》れない椅子《いす》。若い女の担任はニコニコと上機嫌《じょうきげん》で、どこどこ中学校出身ですぅ、趣味《しゅみ》は映画を見ることとぉ、漫画を読むこととぉ、あ、中学では三年間バスケ部でぇ、だのと続けられる声に頷《うなず》いている。
「はい、じゃあ次のひと」
 目立たぬようにため息をついた。
 順番が近づいてくるにつれて、抱えた重みは質量を増していく。他人の自己紹介を聞くどころではなかった。なにを話そうか、頭の中はそれだけ。趣味も特技もない人間にとって、この状況は相当に過酷《かこく》だ。
 いや待てよ――趣味ならあるか。鎌倉《かまくら》時代だ。
 俺《おれ》は鎌倉時代が好きです。特にあの頃《ころ》の風俗、それから武具.工芸品の類《たぐい》が好きで、古典や日本史の資料集はプライベートで何冊か揃《そろ》えて、トイレにも置いています。いいよね、折《お》り烏帽子《えぼし》。心《こころ》躍《おど》るよね、鎧兜《てつかぶと》[#よろいかぶと?]。一度は見たいよね、建長寺《けんちょうじ》の梵鐘《ぼんしょう》。
 でいいか。
 ……いいか?
 首を傾《かし》げる俺の目の前、椅子を鳴らし、前の席の女子が立ち上がった。
「桐谷《きりや》二《に》中《ちゅう》出身、相馬《そうま》広香《ひろか》です」
 おお……こいつの次が、もう俺の番か。
 乙女《おとめ》のように高鳴る胸をおさえ、緊張《きんちょう》をほぐそうと深呼吸。どうしよう。
「あ、相馬さん。皆の方を向いてお話してくれる? 一番前の席だから、先生にしか顔が見えないでしょう?」
「あ……すいません」
 目の前の尻《しり》がクルリと方向転換し、鼻先をプリーツのスカートがヒラリと舞《ま》った。本能に任せて目を見開いたのはしかし一瞬《いっしゅん》、今の俺はパンツなどに惑わされない。なにを話そうか、やはり建長寺しかないのだろうか。しかし……
「相馬広香です。特技は特にないです」
 悩む俺の頭上を、女子の声が素通りしたその時だった。
「うそ。超かわいい」
 誰《だれ》かがボソリと呟《つぶや》いた。
 その声は、やけに響《ひび》いて聞こえたのだ。
 そしてそれを皮切りに、穏《おだ》やかな緊張《きんちょう》をもって静まり返っていた教室の空気が次第にひそやかなざわめきに満たされていく。
 そこここで囁《ささや》かれる声は、かわいい、だの、きれい、だの、芸能人みたい、だの。
「……?」
 一体このざわめきは何事か。
 興味《きょうみ》を引かれ、遅ればせながら顔を上げてみた。
「趣味《しゅみ》もないけど……強《し》いて言えば、音楽を聴《き》くことぐらい、です」
「う」
 ――うわー!
「よろしくお願いします」
 女子は小さく礼をし、顔を上げる。
 俺《おれ》は悲鳴を噛《か》み殺し、そいつの顔を呆然《ぼうぜん》と見上げる。
 確《たし》かにかわいいのだ。澄《す》み切った水面《みなも》のような表情はどこか不機嫌《ふきげん》そうにも見えたけれど、背中まである長い髪も、色白の小さな顔も、なにもかもが美しかった。極めつけに、透明感のある肌のせいなのか、薄《うす》紫《むらさき》というか水色《みずいろ》というか、その女子の周囲は発光している。どれだけ大勢の人間の中にいても、これでは目立たずにはいられないだろう。
 非の打ち所のない完全な美少女、という奴《やつ》。芸能人みたいという言葉が妙に現実味を帯びて聞こえる奴。
 普通なら、席が近くてラッキーというところだ。
 しかし。
 しかしですよ。
 俺はこの美人を知っていた。
 こいつは、こいつは――
「はい、相馬《そうま》さんありがとう。じゃあ次のひと」
 その瞬間《しゅんかん》、俺は自動的になった。
「はい、高井《たかい》中《ちゅう》出身、田村《たむら》雪貞《ゆきさだ》デス。特技は特にないデス。趣味もないケド……強いて言えば、鎌倉《かまくら》時代《じだい》に思いをはせることぐらい、デス。よろしくお願いしまス」
 ――さりげなくパクってみたが、誰《だれ》にも気付かれはしなかったはずだ。誰も俺の自己紹介など聞いていないのだから。クラス中の注目は、いまやすべてこの女のものだ。
 でもちょっと待ってくれ。
 みんな、俺の話を聞いてくれ。
 この女は悪人なんだ。どんなふうに悪人かというと、なんというか、どう説明すればいいか、とにかく端的に言うならば。
 あ……、

『赤コート女』なんだよ!

「ねえねえ相馬さんって、どこに住んでるの?」
 ……。
「桐二《きりに》中《ちゅう》ってことは、志村《しむら》駅《えき》の方だよね!」
 ……。
「あ、あたしそっちの方の塾行ってたよ~。双葉《ふたば》スクールってわかる? あそこあそこ」
 ……どいつもこいつも、だまされている。
 次のガイダンスまで十分ほどの休憩《きゅうけい》が言い渡され、担任が教室を離《はな》れたのと同時。
 チラチラとこちらを見つつも気後れしているメンズをよそに、女子どもは正々堂々と、クラス一の美人のもとへ集結していた。俺《おれ》の鬼気迫る表情にも気付かずに、こいつらは毒とも知らず罠《わな》に群がる小魚のごとくこの赤
「もーここの席、せまーい!」
「うぐっ……」
 なにをする。とは言えなかった。
 女子の一人に俺の机は思い切り押しのけられ、腹に机の辺が食い込み、うめき声を上げることしかできなかったのだ。
「ねえねえー、プリクラ交換しようよー! 相馬《そうま》さんって超かわいくない!?」
「私もプリクラほしい! 広香《ひろか》ちゃんって呼んでもいいかなあ?」
 ……これだから、女子って奴《やつ》は!
 机の位置を嫌味《いやみ》ったらしくガタゴトと直しつつ、俺の顔は一層凶悪に引《ひ》き攣《つ》っていく。入学初日の教室にふさわしいツラではないだろうが、勘弁してほしい。あの赤コート女が目の前にいて、しかもチヤホヤされているのだ。顔ぐらい歪《ゆが》む。
 無事に合格したからといって、入試直前の惨劇《さんげき》を忘れるような俺ではないぞ。鼻血……雪……猫! いやそれだけじゃない、俺はあの後一週間にわたって、両親の部屋で寝たんだ。ガラスの修理に時間がかかるから、と親子三人川の字で。そして見られたんだ……朝特有の、第三の足の目覚めをなぁ! 『あらちょっと……雪貞《ゆきさだ》』『おお、雪貞……おまえ』――思い出したくもないわ!
「広香ちゃん、絶対この学校で一番かわいいよねー!」
 畜生、畜生、畜生!
「……ぬぅ……っ」
 奥歯をきしませながら赤コート――相馬の後姿を睨《にら》みつけ、固く心に誓う。
 絶対にバケの皮を剥《は》がしてくれる。おまえがどれだけ傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な乱暴者《らんぼうもの》かを、天下にしらしめてくれる。人気者でいられるのも今のうちだけだ。
「――あのさあ。うるさいんだけど」
 そうそう、そういう感じの悪さだ。
「こういうのって、すごい迷惑」
 それそれ、その心底ひねくれてます、っていう物言い。
 俺《おれ》はそういうおまえの本性を白日の下に引きずりだして、
「……ん?」
 その時、ようやく異変に気がついた。
 いつの間にか囀《さえず》りの声が止《や》んでいる。つい今までノイズを発していた女子どもは、唐突に黙《だま》りこくっているのだ。
 まるで受験《じゅけん》会場のような緊張《きんちょう》感《かん》をもって、教室はシン、と静まり返っていた。
 そうだ、確《たし》かに今、誰《だれ》かがうるさいと言って、それから――
「あたし、女子グループとか、そういうのはっきり言って嫌いなの」
 静けさの中で、目の前の背中を見た。
 しゃべっているのは、赤コートこと相馬《そうま》広香《ひろか》だった。
 俺の妄想の中ではなく、見るも触るも確かな現実の世界で。周りを取り巻く女子達の真ん中で。
「だからこういうことされるの、本当に嫌《いや》。あたし、見世物じゃないんだけど」
 強い調子《ちょうし》で一人、声を上げていた。
 なにしろ、誰もが彼女に注目していたのだ。クラス中の、誰もが。
 だから、クラス中が一斉に静まり返った。
 やがて、
「……なに、それ……」
「感じわる……」
 一人、二人、と相馬を取り囲んでいた女子達が戦線《せんせん》を離脱《りだつ》していく。クラスの空気はいっそう微妙に凍り付いていく。俺などはあまりの居心地《いごこち》の悪さに、思わず腹まで痛くなりそうだ。
 だが相馬は平気な顔で、去り行く女子の背中を振り返って眺めていた。声もなく、ただ透明な、まっすぐな目線《めせん》で。
 そして俺はその横顔をすぐ後ろから見て、
「……うっ……ぐぅ……」
 うめき声を上げていた。
「ねえ。せまいんだけど。もっと離《はな》してくれない? 机」
 相馬は制服に包まれた肘《ひじ》で、俺の机を思い切り押しのけてくれていた。さっきよりももっと惨《ひど》く、机の角に胃を抉《えぐ》られる。
 なんて女なんだ……身を捩《よじ》りながら苦痛に耐え、顔を上げた。なにか言ってやりたい、なにか一矢《いっし》報《むく》いられるようなことを――そうだ。
 相馬。おまえがどんなにクールな一匹狼を気取って見せてもなあ、その正体は男に振られたぐらいでブチ切れる、危ない暴力《ぼうりょく》女《おんな》だ。そう、この俺は、
「……おまえのひみつを、知っているぞ……!」
 その瞬間《しゅんかん》、俺《おれ》の声が聞こえたのだろう。相馬《そうま》はこちらを振り返って俺を見た。
 キラキラ光る大きな瞳《ひとみ》と、まっすぐに視線《しせん》がぶつかる。そして思った。
 勝った。
 相馬の目の中には、確《たし》かに驚愕《きょうがく》の色があった。眉間《みけん》の皺《しわ》はあせった証《あかし》、「ぐっ」と息を詰めたのは動揺《どうよう》の証だ。噛《か》み締《し》められて歪《ゆが》む唇は、文字どおりグゥの音も出ないということだろう。
 してやったり。大声を上げて笑いたい気分で、肩を強張《こわば》らせたまま固まっている相馬のツラを眺めていた。あせりまくったこのツラを見られただけでも、少しは溜飲《りゅういん》が下がるってものだ。恐らく俺が『田村《たむら》先生』の身内の『田村くん』とは気付いていないはず。せいぜい薄《うす》気味《きみ》悪《わる》い思いをするがいい。
 やがて唇を震《ふる》わせつつ、相馬は低くうなり声を上げた。
「あんたって……」
 おう、なんだ。
「最、低」
 どんとこい。

     ***

 真新しい制靴を脱いで玄関に上がるなり、
「ばか兄貴!」
 靴下でズザーっとリビングヘ滑りこんだ。しかしそこにいたのは兄ではなく、
「やーだ、帰ってくるの早いわねー。新しい友達とどこか寄ってきたりしないわけぇ? 孤独ねー」
 入学式で着ていたスーツはソファにほっぽりだし、サラリと嫌《いや》なことを言ってみせるエプロン姿の母親だった。
「……ほっとけ! いいから兄貴は! 今日《きょう》はバイトない日だろ」
「まだお昼よ。いるわけないでしょ、あの人気者のお兄ちゃんが」
 バリッとせんべいをかじりながらのこの言い草……これで俺の実の母だというのだから、まったく恐れ入る!
「どっ、どうせ俺は不人気者ですよ。……で、兄貴はいつ帰るんだ」
「夜も大学の新歓コンパがどうとかで遅くなるって。あんないい大学でも、そういうのやっぱりあるのねえ。はい、おやつ」
「ったく……なんだよ」
 学校指定の鞄《かばん》を置き、母親が放《ほう》ったせんべいをキャッチ。いらん、と鼻息まじりに呟《つぶや》く。
 せっかくダッシュで帰って来たというのに、留守だと? なんて役に立たない兄貴なんだ。
「直《なお》になにか用事があったの? 携帯にかけてみればいいじゃない」
「それはいやだ」
「なんで?」
「話したら長くなるからだ。電話代がもったいない。……ほら、前に俺《おれ》の部屋のガラスを割った兄貴の生徒がいただろ。あいつ、うちの学校にいて、しかも同じクラスになったんだ。だから」
「あらそー。奇遇じゃなーい」
 バリッ。
「せんべいを食うな! 俺は真面目《まじめ》に話をしてるんだぞ。……兄貴の奴《やつ》、俺の志望校とあの女の志望校が同じだって知ってたくせに、そのことを隠してやがった」
「まあいいじゃない。ガラス代は責任を持ってお兄ちゃんが出したんだし」
「そういう問題じゃない!」
「じゃあなんの問題? あー肩痛い。ちょっともんで」
「いやだ!」
「んまー、やだやだ、機嫌《きげん》悪《わる》いわねー。そんなカリカリしたってしょうがないでしょうに。あのときお兄ちゃんがその話をしてたら、あんたはどうしてたわけ? 志望校をかえてた? 違うでしょ?」
「……う」
 おっしゃるとおりです。
「言っても仕方がないことだってわかってたから、お兄ちゃんも言わなかったんじゃないの」
 ……おっしゃるとおりです。
 なんだか一気に力が抜けた。壁《かべ》にだらしなくよりかかり、急いで帰ってきたせいで額《ひたい》に浮いてしまった汗を手の甲で拭《ぬぐ》う。
「あーそうそう、孝之《たかゆき》も今日《きょう》は遅くなるみたいよ。サッカー部のコーチと顧問《こもん》の先生に接待されるんだって。田村《たむら》君《くん》を囲む会とか言って。すごいわよねー」
「は? 接待? なんだそれは」
 あまりに唐突な話に、かじりかけたせんべいを取り落としそうになる。
「あの、俺が先月まで通っていた、しょぼこい公立中の、サッカー部が? 新入生のガキを? 先月までランドセルだぞ?」
「そうよ~、他《ほか》の部に行かないでね、これから三年間がんばってねって、焼肉おごってもらうんだって。なんだっけ、ほらあんたも見てもらった体育の先生とか、教頭先生なんかも一緒《いっしょ》に」
「……お、汚職《おしょく》事件だ……」
「……お食事券なの? そういう時って」
「いやはや……」
「ふぅん……」
 もはや母親と二人して、ぼんやりと天井《てんじょう》を眺めることしかできなかった。思わずポーズも二人おそろい、顎《あご》に手をあて、おばちゃんティックになるってものだ。
 あの夜、すまんすまんと新聞紙で窓をふさいでくれたモテモテ兄貴は、この春めでたく日本で最難関《さいなんかん》といわれる大学に進学した。そりゃそうだ、全国で何番レベルの頭脳の持ち主なのだから。
 そして同じ日、ランドセルをチョコレートで破壊《はかい》していた弟は、今宵《こよい》接待されるという。なるほどな、小学生の頃《ころ》からプロクラブのスカウトに目をかけられている奴《やつ》は違う。
 俺《おれ》は――なんとかギリギリ入学した中堅公立高校で、嫌《いや》な女と再会したよ。
「そうだ、お父さんが帰ってきたら外になにか食べに行こうか。今日《きょう》はあんたと三人だけだし」
「えっ!」
 珍しい展開に、思わず母の顔をキラキラと見上げる。母さん、やっぱりなんだかんだいってデキの悪い俺のこと……! そうだね、俺、よく考えたら今日は入学式で、お祝いだし……
「あんたしかいないのに晚ご飯作るの、めんどくさいじゃん? 回転ずしかファミレスに行こう」
 ……ああっ!
「そんなオチはいらん! 尻《しり》をかくな!」
「なーに、まだ機嫌《きげん》悪《わる》いの?」
「ふん! もういい!」
 涙をこらえて母親に背を向け、自室に駆け上がろうとしかけた。と、
「……そうだ、忘れ物」
 階段の手前で方向転換。大事な日課《にっか》を忘れていた。
 玄関でサンダルをつっかけ、表に走りでる。昼下がりの日差しの下、郵便受けを開けると何通かの手紙やはがきが滑り落ちてきた。
 心臓《しんぞう》がドキドキと高鳴るのを感じながら、一つ一つを確認《かくにん》し、
「……今日も、なし」
 手の中で束を軽くまとめ、ふ、と小さく息をついた。松澤《まつざわ》小巻《こまき》からの手紙は今日も届かない。
 あのお守りが送られてきたのを最後に、一通も、届かない。
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       2

「……では次に、プリントにして配った助動詞|一覧《いちらん》表《ひょう》を見ていこう。未然形につくのが、す、さす、しむ……」
 る、らる、ず、じ……
「連用形。つ、ぬ、たり……」
 き、けり、けむ……
「終止形。まじ、べし……」
 らむ、らし、なる……めり……
「なり、たり、ごとし」
 眠たし。
 入学式から数日経《た》った、四月のとある月曜日《げつようび》。五時間目は国語で、教師は執拗《しつよう》にラリホーを唱えていた。
「く、あ、あ……」
 噛《か》み殺しきれないあくびが漏れて、目じりにたまった涙を拭《ぬぐ》う。
 ラリホーのせいか、午前中の体育のせいか、昼に食べ過ぎたせいか。とにかく殺人的なまでの眠気が、かわいい我《われ》が目蓋《まぶた》を貼《は》りあわせようとしていた。だがこの席はほとんど教師の真正面、しかも前から二番目などというハズレ席だ。眉毛《まゆげ》のあたりをグジグリと指圧し、なんとか眠気をこらえるが。
「……くああ……」
 抵抗やむなく、あくび二発目。
 しかし――頬杖《ほおづえ》をついてぼんやりと思う。真面目《まじめ》な奴《やつ》もいるものだ。
 目の前には、赤コート女こと相馬《そうま》広香《ひろか》の背中があった。相馬は背中をまっすぐに伸ばし、微動だにせずまっすぐ前を見て、教師の説明に聞き入っているご様子《ようす》。……というか、奴にはもはや、前しか見る方向が残されていないのかもしれない。横も後ろも斜めも、奴にとっては敵だらけだろうから。
 相馬は入学初日に披露《ひろう》した破壊《はかい》的《てき》性格によって、いまやすっかり女子の嫌われ者になっていた。男どもの中にはあの綺麗《きれい》な顔の信者も多くいたが、それでも親しげに近づく勇気のある奴は今のところ皆無《かいむ》。
 結果、相馬が誰《だれ》かと友好的に話しているところなど、一度たりとも見たことがない。昼休みにも、休み時間にも、奴はいつだって一人で席に着き、前を向いていた。
 そしてそんな状況のクラスにあって、この俺《おれ》はと言えば――
「田村《たむら》」
 そう、田村《たむら》です。
 ……ではなくて。
「は?」
 顔を上げると、今にも目に刺さりそうなゼロ距離《きょり》に、ビシリと突きつけられた指示棒の先端が揺れていた。そしてラリホーの使い手は、長い前髪の下から陰鬱《いんうつ》なまなざしで俺《おれ》を睨《にら》みつけている。やばい、呪《のろ》い殺される。その場合はなんだ? やっぱりザキか? ……などとふざけている場合でもないらしい。
「ここまでの話を聞いていたら、今の質問に答えられるはずだな。立って答えてみろ」
 おどおどと席を立ち、みっともなく言葉に詰まった。お気の毒、とでも言いたげな視線《しせん》がそこかしこから向けられているのを感じる。いやだ……こんなふうに注目を浴びるのはいやだよぅ……あ。あ? あぁっ!?
 なんだこれは……いやだ、なんかトラウマの扉がノックされたぞ!? 『わー、せんせぇ、あの森の木の役の子、衣装が前後逆だよぉ』『ほんとだぁ、ほんとだぁ』『へんなのー』『へんなのー』『ヘーんーなーのー!』
 ……ああああー!
「答えられないんだな?」
「すいませんでしたぁ! 俺が悪うございましたぁ!」
 なんで今まで忘れていたんだ。そうだ、俺は小学校一年の時、赤ずきんの森の木の役で……! 指を差され笑われるならまだしも変だ変だと連呼され……!
 動けなかったんだ! だって木の役だから! そのままずっと!
「田村、おまえ……顔色が悪いぞ」
「俺が悪いんです! ……でも、同情はまっぴらなんです! 罰を与えてもらった方がマシなんです!」
 クスン、と滲《にじ》みかけた涙をすすり、児童たちのシルエットとだぶった教師を見上げた。優《やさ》しくなんてしないで。そして俺を責めて。うんと酷《ひど》くして。
「そ、そうか。それならとりあえず……黒板に一覧《いちらん》表《ひょう》を書き写してくれ」
「はい……」
 唐突なトラウマ発動により俺は無力化、ノロノロと教壇《きょうだん》に上がると国語教師の傀儡《かいらい》となってチョークで板書を始めた。いいさ、俺がこうして罰を受けている間に、みんなは授業を受けて賢《かしこ》くなってくれ。
 ――と、
「む!」
 〝いつもの□気配《けはい》を感じ、目立たぬように、しかし素早《すばや》く振り向いた。
 目が合った。
「……っ」
 慌てた素振りで俯《うつむ》くのは、相馬《そうま》だ。だが遅い。こっちを見ていたのはばればれだった。
 またかよ――頭を掻《か》き、息をつく。こんな状況でなければ、そろそろ一言言ってやりたい気分だ。相馬に見られている気配《けはい》を感じたのは、これが初めてではない。
 登校してきて席についた時。休み時間に新しくできた友人とバカ話をしている時。昼休み。トイレに立つ時。掃除の時間。そして、一日を終えて教室を出る時。
 気が付くと、相馬は俺《おれ》を見ている。声をかけるでもなく、挨拶《あいさつ》するでもなく、ただじっと俺を見つめて[#原本は「て」無し]いて、俺が気付いて振り向くと目をそらす。
 そしてそれは間違っても『気があるのか?』なんて類《たぐい》の視線《しせん》ではなかった。可能性があるとしたらむしろ嫌われている方だが、ただ睨《にら》まれているのとも違う気がする。端的に言うなら警戒《けいかい》宣言発令中、といったタイプの鋭《するど》い目つき。監視《かんし》されていると言い換えてもいい。それが、入学式の翌日から今日《きょう》までずっとだ。実害はなくとも神経は疲弊《ひへい》する。
 確《たし》かに俺は、相馬にわざと嫌《いや》なことを言ってやったとも。だがそれだけだ。あれ以来こっちからはなんの接触も持とうとしていないし、クラスの状況に乗じて恨みを晴らすような真似《まね》も一切していない。むしろ、今の相馬を取り巻く『かわいそうな』状況を見て、個人的な恨みは飲みこんでやるかと思い始めてさえいた。死人に鞭《むち》を振るうようなことはやめよう、と。
 それなのに、なんでそんな目で監視されなければいけないのか。この国に正義はないのか――
「終わったか?」
「終わってません!」
 我《われ》に返り、動揺《どうよう》を隠して元気よく答えた。忘れていた、俺は現在懲罰《ちょうばつ》中《ちゅう》だった。
 振り向いた教師の目を意識しつつ、止まっていたチョークを猛然と走らせ始める。しかし、
「あーもういい、もういい! そんな字じゃどうせ汚くて読めないから!」
「あ。……すいません」
 教師に制止され、俺は素直にチョークを置いた。確かにこれでは助動詞の一覧《いちらん》というよりは、印象派の描く絵画に近い。
 タイミングよく、授業終了を告げるチャイムが鳴り始めた。クラスメート達は早々と教科書を閉じ始め、寝ていた奴《やつ》らも頭を起こし、よだれを拭《ぬぐ》う。これにて終了か、と教壇《きょうだん》を下りようとするが、
「田村《たむら》、罰の続きだ。放課後《ほうかご》残ってくれ。国語科準備室で資料の整理《せいり》をしてほしい」
「……な、なんだと!?」
「教師に向かってなんだととはなんだ」
 素早《すばや》く頭をはたかれつつ、嘘《うそ》だろう、声を上げたかった。聞くだに重労働そうなそんな仕事、なんだって俺が……ああ! あのときトラウマさえ発動しなければ!
「田村《たむら》一人じゃ終わらないかな。おい誰《だれ》か、田村を助けてやりたい奴《やつ》はいるかー」
 いるわけないじゃないですかー!
 当たり前だ、誰が好き好んで強制労働に立候補などするものか。俺に片思い中の女子でもいるなら別だろうが、あいにくそこまで妄想|逞《たくま》しくはない。普段《ふだん》仲良くしている連中も、ニヤニヤ笑いでがんばれ、などと言っている。
「……はい。私、手伝います」
 ほら、やっぱり一人……一人!?
 目を疑った。手を上げている奴が、一人いる。
「放課後《ほうかご》。残ります」
 しかもその手を上げているのは、
「相馬《そうま》か。女子には大変かもしれないぞ」
「平気です」
「そうか? なら頼もうか」
 相馬|広香《ひろか》だった。
 一瞬《いっしゅん》静まり返った後、かすかなざわめきが教室を震《ふる》わせた。
 だって相馬が、手を上げているのだ。
 俺《おれ》のことなど見もせずに、薄《うす》い唇を真一文字に引《ひ》き締《し》めて、教師の言葉にコクコクと頷《うなず》いているのだ。
 信じがたい光景に口を半開きにしていると、
「は、はい!」
「はい! 手伝います」
「はい! 俺も!」
 ……さっきまで草も生《は》えぬ荒野のようだった教室に、たちまち男どもの手が何本も突き立った。女子の誰かが、これだからバカ男は、と吐き捨てた。挙手した奴らの目的は、もちろん相馬なのだ。
「……そんなに大人数は部屋に入らん。田村に相馬、放課後に鍵《かぎ》を取りに来てくれ」
「わかりました」
「わ、わか、わか」
「はい、じゃあ今日《きょう》はここまで。委員長、号令」
 ルーティンの起立、礼、着席を終えて教師が教室を出て行き、俺は半ば呆然《ぼうぜん》としてチョークに汚れた指先をすりあわせ、そして、
「……あ」
 相馬と目が合った。なにか言わねば、でもなにを? 礼か? そう思った瞬間、
「……ふん」
 と相馬《そうま》はそっぽを向いた。だが、投げ損ねた言葉の行き場に迷っている暇もなかった。
「ちょっとちょっとちょっとちょっと田村《たむら》ー! おまえー!」
「うおぉ!?」
 俺《おれ》は友人数人の手によって、あっという間に津波にさらわれるが如《ごと》く廊下まで拉致《らち》された。俺を取り囲む男どもの熱《あつ》い息が顔にかかる。や、やめてくれ、あんたたちケダモノみたいだわ。あっ、よせ、わき腹をもみしだくな。
「ねえ、なに!? なになになに!? なんで相馬さん、おまえのこと手伝ってくれるの!?」
「くっそーうらやましすぎー! 親しくなっちゃうのか!? なっちゃうのかよぉ!?」
「ツンドラ女王と親しくなっちゃうのかよぉー! なんで田村なんだよぉー! 田村ならまだ俺の方がかっこよくない!?」
「それをいうなら俺の方が」
「いや俺の方が」
「俺の方が」
 失敬なことを言われつつも、しかし俺は、まったく反応できずにいた。ピコリンキュルン、と立ち竦《すく》み、アウー、などと言葉に詰まり、まるっきりのおばかさんだった。ちょっとした萌《も》えキャラだった。
 おそらく今、このクラスで一番|驚《おどろ》いているのは、俺なのだ。間抜け面《づら》をぶらさげてポカンとしたまま、混乱状態から立ち直れない。
 相馬。
 一体おまえは、なにを考えているんだ。

 この奇跡をモノにしろ! そうでなくては男に非《あら》ず! ――というありがたいアドバイスをもらい、迎えた放課後《ほうかご》。
 相馬はホームルームを終えると無言のまま席を立ち、「なんと言って一緒《いっしょ》に教員室に行こうか」などと悩みまくっていた俺を嘲笑《あざわら》うように自分勝手に廊下を步きだした。後を追う俺の姿を瞬間《しゅんかん》的《てき》に何度か確認《かくにん》し、しかし振り返りはしないまま、教員室に入って行った。相馬です、鍵《かぎ》を下さい、と手を差しだしたところで、俺はようやくその隣《となり》に並んで立った。書籍《しょせき》を分類番号にしたがって書架に並べた上、清掃。それが終わったら鍵を返しに来い。教師はそう言って、鍵を相馬の手の平に乗せた。相馬はやはりなにも言わないまま教員室を出て、そのまままっすぐに人気《ひとけ》のない国語科準備室の前に立って、
 そして、――ガラリ。
 鍵を開けて、相馬が先に部屋へと入る。俺はその後に付き従い、
「……くさいな」
 黴《かび》臭《くさ》さに鼻をすすった。
 返事は、
「……」
 なかった。
 ……これだ。
 背を向けたまま仁王立《におうだ》ちになっている相馬《そうま》を見やり、まさしく為《な》す術《すべ》もない。こんなことになるだろうとは思っていた。
 国語科準備室は埃《ほこり》っぽく、狭くて荒れてて廃墟《はいきょ》化《か》していた。四方の壁《かべ》を潰《つぶ》す大きな書架も、絶望的なカオス状態だった。
 胸苦しくなるような圧迫感。
 あたりはすべて、橙色《だいだいいろ》。
 窓から差す傾いた太陽のオレンジ色をした光が、真四角の床に濃《こ》い二人分の影《かげ》を落としていた。
 そのまま、永遠にも思える数十秒が過ぎ、俺《おれ》は思っていた。……誰《だれ》か、この部屋にBGMを下さい……そうだ、うんと明るい奴《やつ》がいい……うんと明るくて、間が持つようなものを……。
 絶望的な沈黙《ちんもく》と壊滅《かいめつ》的《てき》な気まずさが六畳ほどの空間に満ちる。暴力《ぼうりょく》にも似た静けさの中、ため息だってつくことはできない。
 なんとなく閉じてしまった扉を顧《かえり》み、後悔していた。閉じるんじゃなかった。何センチかでもいいから、開けておけばよかった。狭い密室の中、窒息しそうで小さく喘《あえ》ぐ。
 雑音でも風の音でもなんでもいいから、とにかくこの緊迫《きんぱく》した空気をなんとか、
「……ほうき」
「へあ!?」
「ほうき! 貸してよ! ……もういい!」
 ――相馬は、怒っていた。
 心ならずも毛、という意味の語を発したまま固まっている俺の脇《わき》をのしのしと步き、
「どいて」
「……あ。すまん」
 すぐ背後にあったほうきをむんずと掴《つか》む。そして、
「……あたし掃《は》くから、田村《たむら》は床にある本をひとまず机に上げて」
 陶磁器《とうじき》みたいな白い頬《ほお》を硬くしたまま、「……あたし殺すから、田村は死んで」とでも言うような調子《ちょうし》で指示をくだすった。へえへえお侍《さむらい》様《さま》、そういたしますよ。
 やがて乱暴《らんぼう》に床を掃く音が聞こえだし、俺はそっちを振り返る勇気もなく、言われるがままに屈《かが》んで床の本を拾い始める。が。
「……ぐふっ……ぐっ……ゲホゴホゴホ!」
 目の前が見えない! 息が詰まる! 咳《せき》が……エマージェンスィー! って、
「おまえわざとやってんのか!?」
「……なにが」
 相馬《そうま》の繰《く》りだすやけっぱちのようなほうきの挙動が、密室の床から五十センチまでの空気を塵《ちり》と埃《ほこり》で汚染しまくっていた。ちょうど俺《おれ》の顔のあたりまで、危険な靄《もや》がたゆたっている。
「埃! もっとそっと掃けないのかよ!」
 鼻水を拭《ぬぐ》いつつ抗議《こうぎ》するが、
「ふん」
 と相馬はそっぽを向きやがった。そして同じ勢いで、ガッシュガッシュと掃除を続ける。
「……うぬぅ~……」
 知ってはいたが、やはりなんという悪! 悪百パーセント、ピュア悪だ!
 文句を言っても無駄《むだ》になることはもうわかったから、無言のまま立ち上がって本の分類を始めることにした。こいつの言うことなど聞いていられるか。
 埃の渦から逃れるように距離《きょり》を取り、わかりにくい分類コードに従って本を書架に納めていく。背後からは相変わらず、有無《うむ》を言わせぬ掃き掃除の音が続いていたが、
「……けほっ……」
 それ、見たことか。
「こほ、こほこほこほ……」
 相馬は己《おのれ》の策にはまり、苦しげに咳《せ》きこみ始めた。どうするのかと窺《うかが》い見てみると、乱暴にほうきを床に放《ほう》りだし、スタスタと步いて行って思い切り窓を開けた。
「けほっ! ……うぅ」
 窓から顔を出し、深呼吸しているらしい。なんというか……ちょっとばかなのではあるまいか。悪八に対して、ばか二、ぐらいか。
 そのとき、カキーン、と気持ちのいい金属音が聞こえた。外のグラウンドで野球部が練習しているのだろう。そして、少し冷たい風が吹きこんで埃をさらう。
 ようやく息がつけた。
 橙色《だいだいいろ》の国語科準備室は、静かなる密室ではなくなっていた。古い空気は動きだし、雑音が混じり始めたせいで、沈黙《ちんもく》はさっきよりも気にならない。呼吸もまばたきも咳払いも、息を殺してひそめなくていい。
 やがて相馬もほうきを放りだしたまま、向かいの書架で本の分類を始めた。俺達は背を向けあい、黙々《もくもく》と片づけを続ける。
 数分が経《た》った。
 思った。
 ――なにをやっているんだろう。
 無言でけん制しあい、やけくそのようにてきぱきと働き、そしてそのまま俺《おれ》と相馬《そうま》は、なにも話さずに仕事を終え、黙《だま》りこんだまま鍵《かぎ》を返して、無視しあいつつ帰るのだ。このままいけば、きっとそうなる。
 しかしそれでいいのだろうか。聞きたいことがあったじゃないか。相馬はなぜ、片づけを手伝ってくれるのか。それから、なぜいつも俺を見ているのか。
 今聞かなくてはまた悩むことになるぞ、今がそれを聞くチャンスなんだぞ、さらっと何気ないふうに聞いてみろよ、それですっきりするんだから――自分をポジティブにせっついてみるが、しかし声を発することができない。背中で相馬が動く気配《けはい》を感じつつ、機械《きかい》のように両手は自動的に本を分類し続けている。
 だめだ。このままではいけない。ようやく覚悟を決めて振り返ってみるが、
「……ダブリュー、ごじゅう、さん……ヌハ……」
 小さな声で分類コードを読む相馬の横顔が目に入った。
 いけないモノを見た気になって、慌てて再び背を向けた。
 なんだよ……なんだよ……あんな、かわいい声で呟《つぶや》きやがって、ちょこんと座りこんで俯《うつむ》いちゃって、長い髪が顎《あご》のあたりを隠しちゃって、尖《とが》った鼻先が人形みたいで……。
「うっ……!?」
 ほわああ、やめてくれ。
 唐突に意識《いしき》してしまった。なんてことだ。人気《ひとけ》のない部屋に、俺は相馬と二人っきりなのだった。衝撃《しょうげき》的《てき》美少女と二人っきり。しかも、この状況を好き好んで作りだしたのは、相馬。やめてくれ、と言っているのに、心臓《しんぞう》は今になって激《はげ》しく血流量を増す。不随意筋《ふずいいきん》め、宿主《やどぬし》を裏切るか。
 よく聞け心臓、あれは相馬だ。赤コートなんだ。あんな乱暴者《らんぼうもの》相手に、トクン……トクン……、離《はな》れててもハート、あったかいよ? なんて、洒落《しゃれ》にならない。冗談《じょうだん》ではない。やめてくれ、静まってくれ。
「田村《たむら》」
「はぅっ……」
 こんな時に限って、なんで話しかけてくる!?
「この本、そっちの一番上みたい。……あたし入れるから、」
「い、入れ……っ」
「田村は台になって」
「だ、大に……っ」
「……だってここ、脚立《きゃたつ》とかなにもないでしょ。あたしだって嫌《いや》だけど、仕方ないじゃない」
 大になって入れる……! そして、
「そこに手、ついて」
 突く……!
 はしゃいだ心臓《しんぞう》がやたらと色々な部位に血液を送りまくり、俺《おれ》はすっかりバカになり果てていた。
「……うぅ」
「背中まっすぐに伸ばして。乗るから」
「……あぁ」
「……変な声出さないでよ」
 言われるがままに書架に手をつき、上体を屈《かが》めて次の命令を待つ。すると相馬《そうま》は上履《うわば》きを脱いで、
「……おぉっ!? ……重い!? ものすごく重い……っ!」
 背骨がきしみ、我《われ》に返った。
「う、うるさいわね!」
 同級生の女が一人、俺の背中に乗っかってきたのだ。そりゃ重いだろう。
「上見たら、殺すからね」
「そ、そんな余裕は……ない……っ」
 背中に感じるのは二つの足の裏。あたたかくて小さくて、
「おっ、おまっ、なんかっ、そこっ……内臓……っ」
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「動かないでってば!」
 そして重い。全体重をかけた足の裏二つがグリッ、グリッと痛いポイントを踏みにじる。大でも入でもなんでもいい、早く降りてくれという心境に追い詰められていく。
 それなのに、
「……ねえ。田村《たむら》。あたし……ずっとあんたに言いたいことがあったのよ」
 なぜ今語りだす!? さっきあれほど沈黙《ちんもく》が気まずかった時になぜしゃべってくれない!
「う、ぐ……う」
 答えは声にならず、脂汗が滲《にじ》んだ。あぅ……っ……微妙な体重移動がまた、内臓《ないぞう》に直結してるっぽいツボを刺激《しげき》しているぞ!
「今日《きょう》まであんたのこと、それとなく注意して見てたけど。……他《ほか》の誰《だれ》にもあたしのことしゃべってないみたいね」
 Ah―――――!
 ゴリリッ、と相馬《そうま》のかかとが背中の太い筋肉を踏《ふ》み潰《つぶ》した。俺《おれ》の悲鳴は、喉《のど》の奥で潰れた。
「それで……一応聞いてあげる。あんたの要求はなんなわけ? 脅すような真似《まね》して、ほんっと最低な奴《やつ》。脅迫犯。言っておくけど、あんたの脅しなんか全然こわくないから。別にばらされたって……痛くもかゆくもないんだから」
 なに意味のわからないこと言ってるんだこのバカは、いいから早く済ませろ。そして降りろ。動くな……動くんじゃない!
「あっ!」
 相馬の短い声。
「うおっ!? いてっ!」
 頭上から、分厚いレンガのような本が落ちてきた。後頭部に当り、肩に当り、そして終《しま》いには、
「きゃあ!」
「ふぐっ!」

 ――黒。黒だ。
 黒パンツだ。
 その瞬間《しゅんかん》見上げた視界に、最後に映ったのはそれだ。
 誓って言う。
 影《かげ》などではなかった。
 あれは黒いパンツだった。

「もしももっと腫《は》れてくるようだったら病院に行った方がいいかもね。多分《たぶん》、軽い捻挫《ねんざ》だと思うけど」
「はあ……捻挫とは痛いものですな」
 保健の先生がまだいてくれたのは僥倖《ぎょうこう》だった。
 熱《ねつ》をもって腫れ始めていた足首に湿布を貼《は》ってもらい、そっと靴下をはく。ゆっくりとベッドから立ち上がってみるとやはり多少痛んだが、体重をかけなければ大丈夫そうだ。
「おうちの方に連絡して、迎えに来てもらう?」
「いや、多分この時間だと誰《だれ》もいないと思うんで」
 步くこともできる。ヒトデぐらいの速度だが、家に帰れないほどではない。
 それにしても憎たらしいのは、
「あの子は帰っちゃったのかしらねえ」
「そうみたいですな」
 ――姿を消した相馬《そうま》の野郎だ。こんな俺《おれ》を見捨てやがって。
 あいつは俺の背中の上で意味不明の小躍《こおど》りを踊った挙句、なにがキャーだ、勝手にバランスを崩し、パンツを披露《ひろう》しながら落下してきやがった。真下で俺が受け止めなかったら、今頃《いまごろ》地縛霊《じばくれい》となって学園|七不思議《ななふしぎ》の登場人物化していたはずだ。そして足首を押さえて悶《もだ》える俺に、大丈夫? などと口先ばかりの言葉をかけ、奴《やつ》は国語の教師を呼んできた。教師に背負われて保健室に運びこまれた時には、確《たし》か一緒《いっしょ》にいたはずだったが。
「……あの娘っこは、悪の権化《ごんげ》なのです。僕などはすっかり諦《あきら》めています」
「あら、そうなの? 心配そうな顔してたけど」
「そんなわけないのです」
「そうかなあ」
 若々しい保健の先生は、清潔《せいけつ》感《かん》があって好感がもてた。しかし相馬にだまされているあたり、まだまだ青い果実だな。

 一旦《いったん》教室に引き返し、鞄《かばん》を取って来ると昇降口から外へ出た。本当に、ついていない一日だった。
 校門へ続く桜並木の步道には誰もいない。部活をやっている連中が帰宅するにはまだ少し早いようだ。夕暮れに染まる無人の道を、足を引きずりながらトボトボと步く。俺が乙女《おとめ》なら、孤独のあまり涙をポロポロ零《こぼ》していただろう。
 が、
「……むっ!」
 見つけたのだ。
 自転車置き場の屋根の下、チャリにまたがったままこっちを窺《うかが》っている髪の長い女。相馬だ。
 奴《やつ》の方を振り向くと同時に、相馬《そうま》は慌てて顔を引っこめた。
 なんて女だ、この俺《おれ》を見捨てて、自分だけ楽しくバイシクル帰宅するつもりなのか。そうは問屋が卸《おろ》さないが、この不自由な体では飛びかかったところで逃がしてしまうだけだろう。
 そうだ――一計を案じ、気がつかなかったふりでそのまま步き続けてみる。するとやっぱりあのばかは、こっちが気付いていることに気付かなかったらしい。さっきと同じようにそっと再び顔を出し、俺の方を眺めている。
 なんでもない素振りで、そのまま步いて校門を出た。……ふりをして、門柱の陰に隠れた。
 待つことほんの数秒。
「オラ―――――っ!!」
「うわ―――――っ!?」
 古典的な『熊《くま》さんだぞ』ポーズでチャリの前に立《た》ち塞《ふさ》がってやると、相馬は漫画のように悲鳴を上げて、そのまま自転車ごと倒れやがった。好機《こうき》! ハンドルをガッシと掴《つか》み、
「相馬さん? あなた、なにご自分だけご陽気にチャリチャリ帰ろうとしてやがらっしゃるのかしら!?」
「おっ、おどかさないでよバカじゃないの!?」
「バカはおまえだお調子《ちょうし》者《もの》め!」
 痛む足をかばって跳ねながら、掴んだハンドルを力いっぱい揺さぶる。相馬は苦虫を口いっぱいに含んだツラで起き上がろうと抵抗し、
「離《はな》しなさいよ!」
「やだね! 後ろに乗せろ!」
「はぁっ!? あたしが!? あんたを!? じょっ、じょーだんもいい加減にしてよね!?」
「てめえこそいい加減にしてよね!? 誰《だれ》のせいで捻挫《ねんざ》したと思ってんだ黒パンツ!」
「見たんだ!? エロ!」
「てめえが見せたんだエロ!」
「だって!」
「だっても伊達《だて》政宗《まさむね》(幼名.梵天丸《ぼんてんまる》)もねえ! 乗せろバカ女!」
「おっ、大声出さないでよっ!」

「乗ーせーろ――――っ!」

 のせろー……のせろー……せろー……ろー……。
 ……後に『謎《なぞ》のやまびこ』として学園|七不思議《ななふしぎ》のひとつになったこの事件は、こうして幕を閉じたのだった。
 ――と、いうわけで。
 カゴに鞄《かばん》二つを詰めこみ、相馬《そうま》の漕《こ》ぐ自転車は快調《かいちょう》に街を、
「やだ、なにあの子たちー。女の子の方が漕いでるー」
「プッ! ほんとだ!」
 ……やや快調に街を、
「……み、見られてる」
「気にするな! 漕げぃ!」
 飛ばしていた。
 俺《おれ》は相馬のママチャリの後ろに跨《またが》り、騎手よろしく『そこを右』だの『もっと漕げ』だの、ご機嫌《きげん》な指令を下していた。ただし、厳命《げんめい》によって腹に手を回すことは禁じられ、奴《やつ》のブレザーの裾《すそ》を掴《つか》んでバランスを取るという微妙に情けない格好《かっこう》ではあった。
 意外なことに、一旦《いったん》乗せる、と決めた後は、相馬は素直に俺を自宅まで送り届けようとしてくれていた。いくら悪の権化《ごんげ》とはいえ、さすがに怪我《けが》まで負わせた責任は感じているらしかった。
 だが甘い。
 俺は、さらなるサプライズを相馬に用意しているのだ。
「ヘイヘイヘイ! そこの坂を下れ! 風の如《ごと》くだ! ベルを鳴らせ! 誰《だれ》にも邪魔《じゃま》させるな! ポールポジションだ相馬!」
「……黙《だま》ればか」
「ヘイヘイヘイヘイ! 三叉路《さんさろ》[#原本は「そんさろ」]を右だ!」
「……黙れって言って……え?」
 我《わ》が田村《たむら》家《け》(木造二階建て、4LDK)が次第に近づき、相馬の様子《ようす》がおかしくなる。
「……うそ。田村んちって……こっちなの?」
「そうだぜ! ヘヘイヘイヘイ!」
 おどけながら、口元がにやぁ、と緩《ゆる》むのを抑えきれなかった。そうですよ相馬ちゃん、俺の家はこっちです。
 相馬はキョロキョロとあたりを見回し、不安げにブレーキを掴み、ペダルを漕ぐ足がスピードを落とす。
 ――さて、そろそろ思い出してくれたかな?
「さあ着いた! ここが俺の家だ!」
 自転車を止めさせたのは、あの雪の晚、相馬が張りついていた門の目の前だった。
 我が家を見上げた相馬は、ポカーンと口を開き、大きな目を思い切り見開き、……やめたまえ、まるでいけない等身大人形のようですよ。
「た、田村、って……じゃあ……うそ! うそうそ、まさか……ほんとに!?」
 待ち望んでいた瞬間《しゅんかん》が、ヒア! ナウ! 足をかばいつつも軽快に荷台から降り、指を差して米笑《べいしょう》(アメリカ笑い.しばしば通販番組で見られる)してやった。
「ヒャハー! 今頃《いまごろ》気付いたか! 俺《おれ》は『田村《たむら》先生』の弟だ! ちなみにおまえがあの日割った窓は、俺の部屋だ! おまえの恥《は》ずかしいバレンタインデー特攻作戦は、すべて俺の監視下《かんしか》にあったことをお伝えしておこう!」
 バタン、とまるで漫画のように、今一度自転車は相馬《そうま》を乗せたまま横倒しになった。
「うわああああっ!」
 転がったまま起き上がりもせず、さっきよりも凄《すさ》まじく相馬は叫んでいた。顔面を真《ま》っ赤《か》にし、そのままズルズルと這《は》って逃げようとする。
 チチチ、やめたまえ。
「忘れるな、ここは公共の往来だ」
「うそっ、なんでっ、あんたっ」
「ちなみに、おまえさんがふられた現場でもあるな」
「ぎゃだあーっ!」
 ……ぎゃー、プラス、やだあ、だろうか。
 精神《せいしん》崩壊《ほうかい》した人間というものを生まれて初めて見たが、意外とおもしろいものだった。相馬は顔を赤くしたまま立ち上がることもできず、今にもパンツが見えそうなポーズで、わなわなと震《ふる》えていた。
「なななななんで今まで言ってくれなかったのよっ!? あたしのこと知ってて、黙《だま》って笑ってたんだ!?」
「はっはっは」
 自転車の下でまだ錯乱《さくらん》している相馬を引きずり起こし、言ってやる。
「だーから俺は言ったじゃないか。おまえのひみつを知っているぞ、って」
 相馬はその瞬間《しゅんかん》、パク、と口を閉じた。
 目を見開いたまま、自分を落ち着かせるかのように何度か大きく息をして、
「……じゃ、じゃあ……」
 ジャーもポットもあるか。
「入学式の日に言ってた秘密って、このこと……なの?」
「そうとも! おまえがどんなにクールに振舞《ふるま》おうが、俺はおまえの正体を知っている! チョコ投げ女で、振られ女で、黒パンをはいた乱暴者《らんぼうもの》! 友達はいらないだあ? こういうの、嫌いだあ? バカを言え! いくらかっこつけて気取って見せようと、俺にとってのおまえという女は、それ以外の何者でもないわ!」
 わはは、言ってやった!
 ポカーン、と口を半開きにした相馬に指を突きつけ、俺はとうとうずっと言いたかったことをぶつけてやったのだ。気分《きぶん》爽快《そうかい》!
 ……のはず、だった。
「あ……あれ?」
 相馬《そうま》は、かろうじて立っている、という姿勢で動きを止め、言葉をなくしていた。頬《ほお》も制服も二度の転倒で地面に擦《こす》って汚した姿のまま、ただ静かに瞬《まばた》きをしていた。
 そして、
「あの……相馬、さん?」
 声もなく、クシャ、と顔を歪《ゆが》めた。
 その一瞬《いっしゅん》ですべてを後悔していた。
 俺《おれ》は多分《たぶん》、やりすぎたのだ。
 どうしよう。
「いや、おまえ、俺は別に、なんというかそんなに本気で言ったわけじゃ……その……」
 謝《あやま》ってしまえと思っていた。しかし相馬は首を振った。今にも決壊《けっかい》しそうな表情のまま、俺の言葉を制した。そして、
「……ごめんね」
 相馬が、俺に、謝罪《しゃざい》したのだ。
 それがなにについての謝罪かはわからない。ガラスを割ったことなのか、それとも脅迫犯呼ばわりしたことか、ずっと監視《かんし》していたことか――でもそんなのはどうでもよかった。
 待ってくれよ、と思っていた。
 あのひどい晚のことで、いつか一度は文句を言ってやりたかった。やーいやーい全部見てたぞー、とからかってもやりたかった。だけどこんな顔をさせるとわかっていたら、絶対に絶対に言わなかった。相馬は乱暴《らんぼう》で横暴で頑丈で、なにを言っても傷つかないとタカを括《くく》っていたんだ。
 本当に、後悔していた。
 だから待ってほしかった。
 もう一回、最初からやり直しをさせてほしかった。
 だが、そう思った時にはすでに時遅く、相馬は自転車を漕《こ》ぎだしていて、追いつけないところまで行ってしまっていた。
 やり直しなんか、できるわけがなかったのだ。

 ごめんね――と言った相馬の声のかすれは、いつまでも頭の中をグルグルと回っていた。
 頭を振ってもなにをしても、それは薄《うす》れることはなく、一層深いところまでしみていくようだった。
 そう、なにをしてもだ。
 ポストの中をさらい、松澤《まつざわ》からの手紙が届いていないのを確認《かくにん》しても、相馬の声は少しも鳴
り止《や》んではくれなかった。

       3

「あら? すごい顔色!」
「……よく眠れなかった」
 着替えを済ませて朝食のテーブルにつき、あまり食べる気もしない焼き鮭《じゃけ》を呆然《ぼうぜん》と眺めた。朝の光が溢《あふ》れるリビングには俺《おれ》と母親の姿しかない。
「……孝之《たかゆき》は」
「とっくに出たわよ。朝練って言ってたけど、どうかしらねー。なんか女の子が迎えに来てたから」
 ズズ、と味噌汁《みそしる》を啜《すす》り、
「ははは……すごいな俺の弟は。ギャルが朝練の送迎をしてくれるのか……」
 力なくわかめを噛《か》み締《し》めた。こんなことでいちいち驚《おどろ》くようでは、田村《たむら》家《け》の次男坊などやっていられない。母親もまた然《しか》り。
「それであんた、足はどうなの? お兄ちゃんもお父さんもまだ寝てるから、車で送ってもらうなら起こしてこなくちゃ」
「……いらん。自分で步く」
 茶碗《ちゃわん》に盛られた飯を無理やり半分ほどかき込み、箸《はし》をおいた。痛めた足をかばいつつ席を立つが、寝不足のせいか、頭はいまだすっきりとしない。まさに寝覚めが悪いという奴《やつ》だ。
 なにもかもが、ダメな朝だった。
 洗面所へ行って歯を磨けば歯茎から血が出たし、鏡《かがみ》に映る己《おのれ》のツラは手の施しようもない地味さだし、ネクタイは何度結んでも斜めになるし。
「はあ……行ってくる」
 胸に抱いた鞄《かばん》まで、なぜだかいつもよりずっと重かった。
「な、なんか暗いわね」
 のろのろと玄関に下りて靴を履《は》きつつ、今朝《けさ》何度目かのため息。学校に行くのが憂鬱《ゆううつ》だった。教室に入れば目の前に座っているだろう相馬《そうま》に、どう接したらいいのかわからない。
 昨日《きのう》、相馬に言われた『ごめんね』が、俺の中では尾を引きまくっていた。あんな顔で、あんな声で、あんなふうに謝《あやま》らせてしまった。俺はつまらん罵詈雑言《ばりぞうごん》でもって、一人の女を傷つけたのだ。
 相馬はあの後、泣いただろう。家までもたなかったかもしれない、チャリを漕《こ》ぎつつ泣いたかもしれない。やっと家にたどり着いても、デリカシー皆無《かいむ》のバカ男の言葉を思い出し、メシもろくに喉《のど》を通らず、眠れぬ夜を過ごしたに違いない。多分《たぶん》。
 いっそ罵《ののし》ってくれればいい。罵って縛《しば》って鞭《むち》で打って、踏みつけながら唾《つば》でも吐きかけてくれたなら、相馬《そうま》はやっぱり悪の権化《ごんげ》でなにを言ってもいい奴《やつ》だ、と思えるだろう。罪の意識《いしき》も消えるだろう。
「ああ……」
 扉を開け、春の眩《まばゆ》い光に目を眇《すが》めた。
「……お、おはよう」
「おはようございまーす」
 お隣《となり》さんに挨拶《あいさつ》を返しつつ、のたくたと重い一步を踏みだす。頬《ほお》を撫《な》でるのは嫌味《いやみ》なほどに爽《さわ》やかな風、頭上には明るく、真《ま》っ青《さお》な空。今日《きょう》もいい天気になりそうだ……俺《おれ》にはまったく関係ないがな。
「……おはようってば」
「おはようございまーす」
 足の痛みは、実際たいしたことはなかった。腫《は》れも随分引いてきたし、ゆっくり步く分にはなんの不都合もな
「おはようって、言ってるのにっ!」
 チリンチリンチリンチリンチリン! ――と、やけっぱちのようにベルが背後で鳴りまくった。驚《おどろ》いて振り向くと、
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「……お、」
「なんで無視、するのっ」
 さらに驚《おどろ》いて、思わず鞄《かばん》を取り落とした。
 そこにいたのは、いつも挨拶《あいさつ》してくれるお隣《となり》のお姉さんではなかった。
「おまえ、なにしてっ……」
「待ってたのっ! ……チャイム鳴らすの恥《は》ずかしかったから、す、少し前から……ここで」
「なんで!?」
「……わかんないの?」
 朝っぱらからブンむくれた美少女が、俺《おれ》の家の前で、ママチャリに跨《またが》っている。
「迎えに来たのよ」
 その美少女の名は――相馬《そうま》と言う。
 相馬が俺を、迎えに来たのだ。
 俺は言葉を失って、デクの坊と化していた。
 相馬は朝日の中で唇を噛《か》み、わずかに首を傾けて、ブンむくれたままそんな俺を見ていた。しかし一度プイと横を向き、それからちょっと俯《うつむ》いて、
「……乗って。後ろ」
 次に顔を上げた時には、かすかに笑ってみせたのだ。
「お、おう」
 すべての思考が、ぶっ飛んでいた。
 なんでなんでなんで、と繰《く》り返すだけの脳みそはもはやなんの役にも立たない。意志を完全に放棄して、言われるままに荷台に乗りこみ、ブレザーの裾《すそ》を摘《つま》ませて頂いた。
 気まずさ.疑問.抵抗.遠慮《えんりょ》.お断り.女の後ろ――建設的なことはなにも考えられない。ただ従って、鼻先で光る髪の匂《にお》いをかぐだけ。
「よし、全速前進。行くわよ!」
 緩《ゆる》い上り坂を見上げ、相馬は気合を入れ直した。
「が、がんばれ!」
「がんばる!」
 とりあえず……とりあえず、だ。相馬の髪はものすごく甘いいい匂いがした。そして俺たちを乗せた自転車は、軋《きし》みながらも上り坂を無事に登り切った。

 しかし、母さん、事件です。
 これはほんの序章に過ぎなかったのだ。

「おべんとう」
「…………」
 ポカン、と俺《おれ》は間抜け面《づら》をして、相馬《そうま》の顔を見返していた。
 お脳が麻痺《まひ》している間に、状況を整理《せいり》してみよう。
 時は平成、二十一世紀。ここは教室で、時計の針は正午を回ったところ。
 俺は最近よくつるんでいる小森《こもり》くんと橋本《はしもと》くんと一緒《いっしょ》に昼飯を食べようと思っていた。購買《こうばい》に行ってパンを買おうと、手の平には小銭を握《にぎ》り締《し》めていた。
 対するは、相馬さん。学校一の美人。
「……おべんとう、なんだけど」
 ムン、と鼻息を荒くして、椅子《いす》に座ったまま振り返り、俺《おれ》を睨《にら》ん……いや、見つめている。
 その右手には、チェック柄の布で包まれた、
「べ、べんとう……?」
「うん。……作ったの。私が。……えらい?」
 確《たし》かにえらいモンをぶら下げていた。震《ふる》える指で、そいつを指した。
「……つまり、なんだ、その、それは」
「これ田村《たむら》の。これあたしの。……大きさ、一緒だけど」
 俺の机の上に、二つ並べて弁当箱が置かれた。
「それで、その……一緒に、食べない?」
 ……ええとつまり……おべんと……一緒に……なるほど、俺とおまえが弁当を一緒に……俺と、相馬が……。
「やだ!」
 意味を理解した瞬間《しゅんかん》、反射的に激《はげ》しく仰《の》け反《ぞ》っていた。角度としては、ほぼ百二十度。だってちょっと待ってくれよ、それはまたあんまりにも、なんと言うか、なんと言いますか、唐突すぎると思います。俺には全然ついていけない。理解できない。わからない。
「……なんで」
 口をへの字にして、相馬はぶすっと眉《まゆ》を寄せて見せた。
「それは俺が聞きたいよ!」
「……今日《きょう》のおかずは、豚肉の味噌《みそ》漬《づ》けに玉子焼き、それから山菜の炊《た》き込みごはん」
「そういう問題じゃない!」
「……お箸《はし》もある」
「それも違う!」
「じゃあなんで」
 なんで。
 目の前の二つの弁当箱に打ち砕かれた思考力を、死ぬ気になってかき集め、再構築した。
 問。なんで相馬《そうま》と弁当を食べられないか。二秒以内に回答せよ。
 答え。
「や……約束がある」
「そうなの?」
 おらっ、と頷《うなず》いて見せた。嘘《うそ》ではないのだ。今日《きょう》はとってもいい天気だから、男三人で、日当たりのいい校庭でおべんとたべましょう、そうしましょう、と決めていたのだ。本当に。
 それを裏付けるように、
「田村《たむら》ー、メシ食いにいこー。……あれ?」
「購買《こうばい》寄るんだろ? 早く行こう。……あ」
 小森《こもり》(茶髪)と橋本《はしもと》(メガネ)が俺《おれ》を誘いに来てくれた。そして二人は俺の机を見て、顔を見合わせた。小森が指差したのは、
「……弁当だ。ふたつあるね」
 それから橋本が、なんだか妙に恭《うやうや》しく、
「……相馬さんが作ったの? これ」
 相馬はこっくりと頷いた。
「あー……じゃあ、そっかぁ! ああー……へえ、そう……い、行こうか、はしもっちゃん」
「うん。田村、メシはまた明日《あした》な」
「ややややや! 待て、俺も一緒《いっしょ》に食うから!」
 微妙な笑顔《えがお》を残して踵《きびす》を返した二人に飛びつき、必死に腕を掴《つか》んでいた。
「えー、でもぉー……なあ」
「俺たちのことは気にするなって」
「違うから! 本当に! 俺、おまえらと食べるって! 校庭で食おうって約束しただろ、俺楽しみにしてたもん! じゃ、相馬、そういうことだから! チャオ!」
 二人を押しだすようにして無理やりに步きだしたが、それしきのことでめげる相馬ではなかった。そそくさとふたつの弁当箱を掴み、
「……じゃああたしも一緒に食べる」
「だめっ!」
 反応速度は光速。
「女子には聞かれたくない話するからだめっ! メシを食いつつエロスと暴力《ぼうりょく》と闇《やみ》金融《きんゆう》について語りあうのが日課《にっか》なんだ! 場合によってはうんことか、ゴキブリとかの話もなあっ!」
「でも」
 食い下がろうとする相馬の手から、チェック柄の包みをひとつ奪い取った。ええいままよ。
「……こ、これはありがたく頂くから! ほら、橋本、小森、行こう」
「え、ちょっと田村」
「俺《おれ》達は別に」
「いいの! 行こう!」
 二人の背中を押して、昼休みの騒《さわ》がしい教室から必死に逃げだした。
 背中には視線《しせん》を感じていたが、振り返る余裕などあるものか。そんなモンがあるのなら、あのまま相馬《そうま》と二人して、仲良く弁当を食っていたとも。

「相馬さん、ほっといてよかったのかよ?」
 ぽかぽかと暖かい春の日差しの下、パンジーの花壇《かだん》に座り、そんなことを言いだしたのは小森《こもり》だった。
「……いいよ別に」
 その向かい、地面に直《じか》にあぐらをかいて座った橋本《はしもと》も、
「ちょっとかわいそうだったんじゃないか? 別に仲間に入れてやってもよかったのに」
 セルフレームのメガネを軽く押し上げて俺を見る。
 小森の隣《となり》に並んだ俺は、ポイ、とブロッコリーを口に放《ほう》りこんで、足元に視線を落とした。
「……やだね。なに話していいかわからないし」
 ブロッコリーは、鮮《あざ》やかな緑。柔らかくてとてもおいしい。玉子焼きも、豚の味噌《みそ》漬《づ》けも、山菜の炊《た》き込みごはんも、どれもこれもものすごくおいしい。……罪悪感のスパイスが、本当によく効いている。
「そう? 付き合わないの?」
 ブッ! と噴《ふ》きだしたブロッコリーは、発言者の橋本ではなく、小森の顔に。
「……田村《たむら》ぁ……」
「ご、ごめん! だってこのメガネが妙なこと言うから!」
「そんなに妙かな?」
「あったりまえだろ! 奇妙《きみょう》奇天烈斎《きてれつさい》さまだよ! なんで俺が相馬と!」
「相馬さん、確《たし》かにきつい性格してるとは思うけど、群れてつまらんことしてる他《ほか》の女子よりよっぽどいいじゃん。しかも超がつく美人。さらにその上、おまえに気があるみたいだし」
「うぶっ」
 もう一発、ブロッコリーをぶっ飛ばしそうになる。辛うじて飲みこむが、
「……大丈夫か?」
「だ、大丈夫じゃない! 気があるって、なんだそれは!? そんなわけなさすぎだ!」
「じゃあなんで昨日《きのう》、片付け手伝ってくれたんだ? あの後告白でもされたかと思ってた」
「こっ、告白だとぉ!? バカを言え、生まれてこの方|記憶《きおく》にございません!」
「なら、あれはなんと説明する?」
「え?」
 橋本《はしもと》が指差したのは、真《ま》っ青《さお》な空――ではなくて。
「……なにやってんだよ、あいつは……」
 三階にある教室の窓から、こっちをジッと見下ろしている相馬《そうま》だった。一人ぼっちでパックの牛乳を吸い、見上げた俺《おれ》と目が合うと、ブンブンと手を振ってくる。
 ティッシュでブロッコリーまみれの顔を拭《ぬぐ》い、うひょー、と小森《こもり》は俺の肩を箸《はし》でつついた。
「やっぱ仲いいじゃーん! いいなー、ほんっとうらやましいよ! あーんな美人の手作り弁当なんかもらっちゃってさー! ねー、はしもっちゃーん」
「誰《だれ》だってうらやましいだろ、この状況は。田村《たむら》は嬉《うれ》しくないのか?」
「うっ……嬉しいもなにも……だって……」
 橋本の視線《しせん》を避けて、再び頭上を見上げる。
 相馬は相変わらずの格好《かっこう》で窓から身を乗りだしているが、今はボケーっと空を眺めていた。一人っきり、教室の喧騒《けんそう》から少しでも離《はな》れていたいみたいに。なんだかポロリ、と落ちてしまいそうで、奇妙な不安感に囚《とら》われる。
「……ほんとに、全然意味がわからないんだよ。昨日《きのう》までツンケンしてた奴《やつ》が、今日《きょう》になってなんでいきなり手作り弁当なんだ? 嬉しいとか嬉しくないとか、そんなところまでまだ思考が追いついてない。これを受け取るあたりが俺の限界だ」
「でも、おいしそうだよね、それ」
「……うまいよ」
「いっこくれよ、その玉子焼き」
「ノン!」
 ツツツ、と伸びてきた小森の手を、箸《はし》でペッ、と追い払った。
「あーれぇ? なんだよ田村、やっぱめちゃくちゃ嬉しいんじゃないのぉ~?」
 違います。
 そうじゃなくて……ただ、もし本当に俺のために作ってくれたものなら、全部腹におさめてやるのが礼儀《れいぎ》だと思っただけです。それで済むのなら――済む、のなら……
「……ぐ」
 玉子焼きが喉《のど》につかえた。
 一瞬《いっしゅん》、超有名な慣用句《かんようく》が頭を過《よ》ぎったのだ。
「あれ? どした? むせた?」
「……ごほごほごほっ!」
「ほら、お茶お茶!」
「……げほっ!」
 咳《せ》きこみながら、予感に震《ふる》えた。それで済むのならいいけれど……事件はこれまで二回あったのだ。
 一度目の事件は、朝迎えに来ていたこと。
 二度目の事件は、この弁当。
 よく言うじゃないか。二度あることは――

 ――午後三時五十分。
 激動《げきどう》の一日がようやく終わろうとしていた。
 弁当箱を返して礼を言う、という最大の苦難《くなん》をなんとか乗り切り、帰りのホームルームまでを無事にやり過ごすことができた。
 帰り支度《じたく》をして席を立とうとしていた。
 その時だった。
 本屋に行きたい。
 奴《やつ》は確《たし》かにそう言ったのだ。
 それからちょっとげーせんによってあそんだらえきのうらのからおけにいこう――嵐《あらし》はすでに過ぎ去ったものと油断していた俺《おれ》にとって、それは立ち上がれなくなるほどの衝撃《しょうげき》的《てき》事件だった。
「な、な、なん」
「送ってあげるからそのついでに」
 なんだって――――!
 俺の顔の前に自転車の鍵《かぎ》を突きだし、ゆらゆらと揺らしながら相馬《そうま》は小さくえへ、と笑う。隙《すき》なく打ち返された答えは、とっくに相馬の中で用意済みのものだったらしい。
 反応できないまま固まった俺の目の高さで、
「お、おごるし」
 相馬は鍵を持ったままの手の親指を立て、任せろサインを作って見せた。俺は思わず、
「ふンむ!」
「あいたたたたたたっ! 折れる!」
 その指を掴《つか》んで逆曲げしてやっていた。
「折ってやってるんだよぉ! ……はっ!? お、俺としたことが婦女子になんということを……!」
 痛みに悶《もだ》える相馬から離《はな》れ、クラクラくるこめかみを力いっぱい押さえる。
 なんてこった……。海の向こうからやってくる蒙古《もうこ》軍《ぐん》の船団を見た九州《きゅうしゅう》の人々も、こんな気持ちだったに違いない(元寇《げんこう》)。
 お迎え、弁当ときてその次は、一緒《いっしょ》に寄り道して帰ろう、だと? ついていけない、を通り越して、今やだまされている気さえする。これで喜んでホイホイついて行ったら、そこにはクラスの男どもがいて、『やーいやーいだまされたー!』『ばーかばーか、ここに来た奴《やつ》は一万円振り込めー!』『最終勧告通知書だ、有料情報サービスの未納通信料金を振り込めー!』『振り込まれない場合は当社の顧問《こもん》弁護士《べんごし》が回収に』……架空《かくう》請求《せいきゅう》か、おのれ! その手には乗らないぞ!
 くわっと顔を上げ、相馬《そうま》を睨《にら》んだ。そして、
「な、なんで俺《おれ》がおまえと仲良く遊んで帰らないといけないんだよ!」
 強い口調《くちょう》で断固拒否。
 だまされるものか。こいつ俺に気があるんじゃないの.弁当だってくれたし今度はデートに誘ってくるしなんか態度もちょっとかわいいし.もしかして俺のこと本気で……なんて絶対に思うものか。そんなわけがないのだ。これは元寇《げんこう》なのだ。調子に乗って恥《はじ》をかいたり痛い目をみたりするものか。
 あれ、でも……もしかしてこいつ、俺のこと本気で……
「なによ、いいじゃないそれぐらい! なんでだめなのよっ! どーせ予定なんかない暇人のくせにっ!」
 ……だまされるものか!
「俺は結構だ、一人で帰る! さらば!」
「だ、だめっ!」
 そそくさと教室を出ようとするが、細い足を踏ん張った相馬は、俺を通さないように両手を広げて通路に立《た》ち塞《ふさ》がった。おまえはどこの弁慶《べんけい》だ。
「一緒《いっしょ》に帰ろ! 本屋と、ゲーセンと、カラオケ!」
「いやだ! 意味がわからないしだまされそうだからいやだ!」
「……お、お願《ねが》い……」
「いっ……」
 いやだ。だめ。たったそれだけの言葉を――言いそびれてしまった。
「お願い……」
 うぐ、と喉《のど》が詰まる。
 立ち塞がって頑張っている相馬の頬《ほお》が、うっすら上気して強張《こわば》っていることに気がついてしまった。俺を見上げた眼差《まなざ》しにも、怯《おび》えの色を見てしまった。その肩が、小さく震《ふる》えているのもわかってしまった。
「……そんなに、嫌《いや》がらなくたって……」
 いいじゃん。
 俯《うつむ》いた相馬の言葉は、かすれて尻切《しりき》れトンボになった。
 つまり相馬は、必死だった。
 あせって困ってめちゃくちゃになっているのは俺だけではなくて、相馬もまた、恥《は》ずかしかったり拒否されるのを恐れていたりしたのだ。相馬《そうま》なりの理由があって、なんとか俺《おれ》を引き止めようと、必死なのだ。
 少なくとも俺には、そう見えてしまった。
「……なんなんだよ……もう……」
 深いため息を絞りだし、頭を抱える。元寇《げんこう》の時は助かったが、今回ばかりは神風《かみかぜ》だって俺を枚うことはできない。
「た、田村《たむら》……」
 わからない、わからない、相馬の考えていることがまったくわからない。わからないけれど――これ以上拒否することもできそうにない。
 意を決して顔を上げ、自棄《やけ》のように大声を出した。
「……わかったよ! 一緒《いっしょ》に帰って、なんだ、本屋だのカラオケだのに行けばいいんだろ!」
「……ゲーセン」
「本屋とゲーセンとカラオケ! いいよなんだって、付き合ってやる!」
「ほ、ほんとっ!?」
 大きな目を輝《かがや》かせ、萎《しお》れていた相馬が生き返った。輝くような笑顔《えがお》を浮かべて胸の前で手を合わせ、どこまで自覚があってやっているのか、そのまま小さく飛び跳ねてみせる。
「やった! あ、あたしロッカー行ってくる! 待ってて、すぐ支度《したく》するから! 帰らないでね!」
「はいはいはい……」
 転がりかねない勢いで走りだした相馬を見送り、ぐったりと椅子《いす》に背中を預けた。わからないもわかるもないのだ、俺は完全に負けていた。根拠不明な相馬のがんばりは本当に『嵐《あらし》』そのもののようで、対処する術《すべ》が見つからないのだ。不幸にもぷつかってしまったなら、ただ巻きこまれ、翻弄《ほんろう》され、揺すぶられるのに任せるしかなかった。
 嵐の後になにが残るのかはわからないけれど――と、
「……見た? 今の。またやってるよ相馬」
「男なら誰《だれ》でもいいんじゃねえ?」
「田村も断れっつうの」
 少し離《はな》れたところから、冷たい悪意が発射されたのに気がついた。教室の隅に固まった数人の女子が出所らしい。女子達は俺ではなく、ロッカーを漁《あさ》る相馬を冷たく眺めていた。
 それはそれは凍りつくような、恐ろしいほど冷ややかな視線《しせん》だった。自分に向けられていたとしたら、いくら相手が女子とはいえ、心は相当に凍《こご》えるだろうと思えた。
「おまたせ!」
「……早く出ようぜ」
「え? うん、もう出られるよ」
 急げ急げと急《せ》き立てて、俺《おれ》は相馬《そうま》を教室から押しだした。不思議《ふしぎ》そうな、しかし嬉《うれ》しそうな顔で相馬は俺を見上げていたが、その理由は話せなかった。
 俺は、恐ろしかったのだ。
 鞄《かばん》を持って駈《か》けて来た相馬が完全に無防備な姿に見えて、向けられていた視線《しせん》に晒《さら》すことができなかったのだ。

 そして三十分後。
 商店街のカラオケ店『おれのこえ』前。
「……おまえなあ……」
「……だって……」
 俺と相馬は停《と》めた自転車を挟み、それ以上の言葉もなくバカのように立ち尽くしていた。さぞかし往来の邪魔《じゃま》になっているだろうが、しかし俺は悪くない。相馬が全部悪いのだ。
 三十分前に学校を出た俺達は、相馬のスケジュールに基づいてまず本屋へ向かった。
 相馬が雑誌の棚に行ったのを見送って、俺は漫画のコーナーヘ行き、新刊をチェック。そのうち「なに見てるの?」と相馬がやって来て、「だまされたと思ってこれを一気買いしろ」
「やだ、絵が汚いからいらない」「なんだとてめえ、画伯になんてことを! あやまれ! あやまれ!」……などと心温まる交流を持った。
 そこまでは順調《じゅんちょう》だった。
 問題はここから先だ。その次に向かったのはゲーセンだった。
 行きたがるのだから、さぞかし目当てのゲームでもあるのだろうと思いきや、「田村《たむら》、ここって騒々《そうぞう》しいね」「なんかすごくタバコ臭《くさ》い」「あの人たち、なんかこわそうだよ」「え? いいいい、あたしそれの遊び方知らないもん」「あっ、待って、一人にしないで」……結局、二階建ての店内を三回ほど上がったり下ったりしただけで、相馬は一度もゲームに手を触れることなく店を後にしたのだ。
 迷惑女の言《い》い訳《わけ》は「……だって、あんなに騒々しいところなんて思わなかったんだもん。なんか、こわそうな子たちがウロウロしてるし……田村はあたしを守ってくれるかと思ったら、他《ほか》の人がやってるゲームの画面ばっか見てるし」だとか。
 守るってなんだ? 寝言は襲《おそ》われてから言え。それから脱衣マージャンの画面を覗《のぞ》き見してなにが悪い。七度生まれ変わろうと、見られるものなら俺は見る。
 そして、極めつけがこれだ。
「……おまえが来たがったくせに、入りたくない、ってどういうことだ!?」
「お、大きい声出さないでよ……お店の人がまだこっち見てる」
 自転車のハンドルをクイクイといじりながら、相馬は自動ドアの向こうのカウンターを盗み見た。
「そりゃ見てるだろうよ! 受付まで済ませておいて、会員証まで作っておいて、いきなり『たむらぁ、あたしぃ、やっぱなんかはいりたくないかもぉ~ぐへへ』……なんて言われりゃ、店員さんだって見続けるわ!」
 ――つまり、そういうことだった。
 相馬《そうま》は気まずそうに唇を尖《とが》らせ、
「……だって……」
 一〇一回目のだってを発する。
「プロポーズじゃあるまいし、おまえの『だって』はもう聞《き》き飽《あ》きた! このおとぼけ梵天丸《ぼんてんまる》!」
「……なにそれ。あ、待ってよ!」
 店員の冷たい視線《しせん》に負けて步きだすと、自転車を引いた相馬が追いかけてきた。大股《おおまた》で步き去ってしまいたいところだが、残念ながら捻挫《ねんざ》が痛い。あっさりと追いつかれ、
「待って田村《たむら》、どこ行くの?」
「……決まってる、帰るんだ。本屋も、ゲーセンも、カラオケも付き合ってやった。これで満足したんだろ?」
「……う、後ろ乗る?」
「いらん」
「……怒ってるんだ」
 立ち止まった。
 振り返り、顔を見ながら言ってやる。
「怒ってるんじゃない、呆《あき》れてるんだ! ……おまえ、俺《おれ》を引きずり回して、一体なにがしたかったんだよ?」
 捻挫していた足は痛いし、相馬はわけがわからない。わけがわからないのは今だけじゃなくて、朝も昼もずっとだ。疲れ果てていた。本当に、なんという一日だったのだろうと思う。緊張《きんちょう》したり混乱したり、相馬に弄《もてあそ》ばれまくった体は身《み》も蓋《ふた》もなくクタクタだ。
「ふ……普通かな、って、思って……」
「先生、相馬さんの言っている意味がわかりません」
 相馬に背を向け、再び步きだす。
 相馬は自転車を引いて、俺の後をついてくる。
「だからぁ! ……普通の子たちが寄り道したり、遊びに行ったりするのって、だいたいそういうところじゃない。だから、だから……いいかなって思ったんだけど……なんか、どうしていいかわからないし、あたし……浮いてたし」
 沈黙《ちんもく》は、およそ三秒。そして、
「……田村のこと、誘いたかったんだもん。……どっか寄って行こうって、言いたかったんだもん」
「……」
 ――聞こえない。
 その声はあまりにも小さくかすれていたから、聞こえませんでした。なにか聞こえていたとしても、それは聞き間違いです。そうだそうだ、そうに違いない。
 だって、そんなのまるで、相馬《そうま》さんが僕のことを好いているような感じになるではないですか。
 そんなことない。ないと思う。ないはず。うん、ない。だって俺《おれ》は俺だぞ? 相馬は相馬だぞ? ありえない。
 一瞬《いっしゅん》でそう判断を下し、步き続けようとした。
 だが、相馬は立ち止まっていた。
「……ね、田村《たむら》」
 聞こえないふりをしてそのまま步き続けられたら、どんなによかっただろう。しかし俺はビクリと震《ふる》え、反射的に足を止めてしまっていた。
「なにがしたかったんだ、って、今あたしに聞いたよね?」
 理解できないものは恐ろしい。
 だから、相馬が恐ろしい。
 振り返るのが、やっとだった。
 俺と目が合うのを待ち、相馬は綺麗《きれい》な顔を澄《す》んだ水面《みなも》のようにして、その言葉を発した。
「それじゃあ――あたしが本当に行きたいところに、行ってもいい?」

 自転車が止まったのは、ある高層マンションの駐輪場《ちゅうりんじょう》だった。
 相馬は慣《な》れた様子《ようす》で自転車を停《と》め、なにも言わずにエントランスに入っていく。少々古びたこのマンションには、オートロックなどという洒落《しゃれ》たものは装備されていないらしい。
 相馬の自宅、なのだろうか――思ってしまってうろたえる。え……うそ……どうしよう……。
 俺はもじもじと内股《うちまた》になるが、エレベーターはちょうど一階に止まっていて、考える時間は与えてもらえない。乗りこんで、相馬は最上階である十二階のボタンを押す。沈黙《ちんもく》に満たされたまま密室の小箱は上へ上へと上り始め、俺は死ねるほどドキドキしていた。
 心の準備はまだできていないし、そのうえ今日《きょう》のパンツはよりにもよって、今にも煙になって消えそうなほどにはき倒したボロなのだ。……やだ……ピンチかも……。
「ついた」
「きゃっ」
 乙女《おとめ》のような俺の悲鳴とともに、エレベーターは静かに停止した。もう逃げられない、覚悟だゾ、雪貞《ゆきさだ》。
「おっ、おまえの家って、十二階なんだな! たっけ~!」
 緊張《きんちょう》を悟られまいと、妙なことを口走っていた。すると相馬《そうま》は、え? と振り返り、
「ここあたしんちじゃないけど?」

(空白)

「……なにしてるの?」
「はっ!? ……い、いや、別になんともない。気にするな」
 危なかった。現実の世界を見誤った勢いで、一瞬《いっしゅん》肉体を放棄しそうになった。
 正気を取り戻し、相馬の後に続いてエレベーターを降りる。そして、今度こそ本当に、
「……うわっ」
 驚《おどろ》いた。
 目の前には、夕焼けに赤く染まった大空が大パノラマで広がっていたのだ。
「すごいな、この眺め!」
 地上十二階の外廊下からは、眩《まぶ》しい朱色《しゅいろ》に光る夕陽《ゆうひ》も、遠くの繁華街《はんかがい》の高層ビルも、すべてが一望できた。二階建て育ちの俺《おれ》は思わず駆け寄ろうとするが、
「違う。こっち来て」
 相馬はチョチョイ、と俺を手招き、左右に伸びた廊下の一端へ步きだす。後をついて行くと、そこは避難《ひなん》階段の踊り場になっていた。正直に言うと、少し怖い。胸のあたりまでしかない手すりは、簡単《かんたん》に乗り越えられてしまいそうだ。
 だが相馬は平気な顔でその手すりにもたれかかり、
「あれ……見える?」
 大きな土色《つちいろ》のグラウンドを抱いた、ひときわ目立つ建物を指差してみせる。
「見えるけど……なんだ? 学校?」
「そう。桐谷《きりや》二中《にちゅう》」
「……工事中か?」
 その学校の敷地《しきち》にある一番大きな建物には、建設会社の名が大きく入った白いシートが被《かぶ》せられていた。
「うん、そうだよ。工事中。校舎の建て替えするんだって。ほら、あそこに仮設校舎が見えるでしょ」
「見えるけど……詳しいな」
「うん。あたしの母校だから」
「そういえばそうだったか。……で、おまえが来たかったのって……ここ?」
「うん」
 なんで?
 ――とは、聞けなかった。
 静かに学校を見下ろした相馬《そうま》が、壊《こわ》れ物の横顔を見せたせいだ。
 相馬は、なにも言わなかった。そうして黙《だま》りこんでいる様子《ようす》は、まるで今にも破裂しそうな水風船のようだった。すこしつつけば限界まで孕《はら》んだ水気を零《こぼ》してしまいそうな、そういう壊れやすいものに見えていた。
 そして、手すりを握った指も、噛《か》み締《し》められた唇も、ひどく強張《こわば》って『痛そう』で、沈黙《ちんもく》を破るのが恐ろしかった。相馬の世界を壊せなかった。
 やがて落とされた呟《つぶや》きは、
「……壊されるんだよ」
 やけに重い響《ひび》きをもって俺《おれ》の耳に届いた。
「壊されちゃうんだよ、あれ。……取り壊しなんだって」
 母校が変わってしまう寂しさ――でもなさそうだった。抑揚のないその声は、完全に感情の色を消し去っていた。
「……そりゃ、建て替えするなら……しょうがないだろうな」
「そうだよね」
 そう答えた頬《ほお》を照らす夕焼けの光は、鮮《あざ》やかな赤。まるで血でも流しているみたいに、相馬
の顔が真《ま》っ赤《か》に染まる。
 目が離《はな》せなくなった、その時だった。
「……壊されるんだ。全部。……ざまみろ」
 ざまみろ。
 相馬は、そう言った。
 それはあまりにも唐突で、あまりにも意味不明で、
「お、まえ、」
「ん?」
 声がみっともなく上ずった。それでも言葉を切ることはできなくて、
「おまえ……いつもこんなことしてるのか?」
 俺はそんなふうに尋《たず》ねていた。
 おまえはいつも一人でここにきて、こうやって壊れかけた学校を見下ろして――そして『ざまみろ』と呟いて、それで。
 それで、一体、なにを思っているんだ?
「……なんでそんなこと聞くのよ」
 振り向いたのは、笑顔《えがお》。
「そんなわけないでしょ。もう行こ。……そろそろ帰らないとね」
 相馬《そうま》は真《ま》っ赤《か》な空に背を向け、大股《おおまた》で步きだしていた。何事もなかったかのようにエレベーターのボタンを押し、早く来ないかな、などと呟《つぶや》いていた。
 だけど、だ。
 その背中を見て、俺《おれ》は言うか言うまいか迷っていた。
「あ、来た」
 迷って、そして、
「帰りもまた頑張って、自転車|漕《こ》がなきゃ」
「……おう。漕ぎまくれ」
 飲みこんだ。

 だけど、いつも来ているから、ここから学校が見下ろせることを知っているんだろう?

     ***

「それはおまえの兄貴|狙《ねら》いなんだって。おまえと仲良くして、田村《たむら》家《け》に再び接近して、そして兄貴にもう一回告白、とか思ってるんだよ」
 客観的《きゃっかんてき》に見るならば、この状況はそういうことらしい。
「俺は結構油断ならないと思うなー、その相馬さんっていう女子」
「……そうか?」
「そうそう。ムフー!」
 電話の向こうで小学校からの親友.高浦《たかうら》は、自信ありげに鼻息を荒くした。
 しかしどうにも納得できず、受話器を耳に押し付けたまま、ベッドにゴロリと寝転がる。
「……なんか、そういう感じでもなかったんだって」
「はー? じゃあどんな感じなんだ? おまえ、まさか本気で『モテてる』などと思っているわけではあるまいなあ。立ち上がれ。鏡《かがみ》を見ろ。おまえはモテるにふさわしきご面相をしているか?」
「見なくてもそんなモンわかる」
「だろ? まったく情けない……ちょっと目を離《はな》したらこれだからな」
「そういうわけじゃないって! ただ、」
「ただ?」
 問い返されて、言葉に詰まる。
 うまく解説することができない。
「……相馬が俺に兄貴の話なんかしたことはないし」
「それから?」
「……それから、その……」
 どう高浦《たかうら》に言ったらいいのだろう――一生懸命《いっしょうけんめい》に自転車を漕《こ》ぐ背中だとか、弁当をぶら下げて恥《は》ずかしそうに笑った顔だとか、俺《おれ》を誘いながら赤くしていた頬《ほお》だとか、それから……学校を見下ろして黙《だま》りこんだ横顔だとか。
 俺が見てきた相馬《そうま》がどんな奴《やつ》だったのか、うまく言葉にできないのがもどかしかった。
「……とにかく、相馬にはそういう『打算』はないんだって!」
 一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》の後、はああ、とわざとらしいため息が、薄《うす》気味《きみ》悪《わる》く耳をくすぐった。
「田村《たむら》さぁ、それって、おまえの願望《がんぼう》だろ?」
「し、失敬な! 違う! ……別に相馬にモテたいなんて思ったことはない!」
「そうかねえ。……一応聞いちゃうけどさ、おまえ、まさか松澤《まつざわ》のことを忘れたわけじゃないよな?」
「あっ、」
 跳ね起きた。
「あっっったり前だろ!? なに言ってんだよ!」
「……ふーん。ま、それならいいけど。俺は松澤に結構肩入れしてるからさ、あんまりひどいことはしてほしくないなーって」
「ひ、ひどいことってなんだよ!? なんたることを言うんだ、そんなことするわけないだろうが! 俺はおまえの千倍以上、松澤に肩入れしているんだ! 松澤専用のチアボーイになっていいぐらいにな!」
「……わかったわかった、大声出すなって」
「畜生出してやる、大きな声を出してやる! わぉぉぉぉーっ!」
 プツ、と電話は切れた。
「あれ? 高浦? もしもーし! 高浦ー! ……本当に切れてやがる」
 どこまで失礼な奴なんだ。通話を切った受話器を適当に放《ほう》りだし、乱暴《らんぼう》に枕《まくら》に頭を預けた。
 しかもなんだ、松澤のことを忘れてる、だと?
「……そんなこと、あるわけないだろうが」
 好きな女だ。初恋の相手だ。今は遠く離《はな》れていても、忘れない、と約束しあったのだ。
 だから忘れることなんか、あるわけが――
「っ!?」
 ――もう一度、跳ね起きた。
 寝そべったまま目をやったデスクライトに、ぶら下がっているはずのお守りがなかったのだ。何度見直してもない。やっぱりない。
 慌ててベッドから転がりでて、机の周りを探す。
「うそだろ……ない、ない、ないない……ないっ!」
 松澤《まつざわ》からの最後の便りだったのだ。
 チョコレートじゃなくたって、本当に嬉《うれ》しい贈《おく》り物だったのだ。
 ずっとぶら下げてあったはずだ。ずっとここにあったはずだ。いつも見ていたはずだし、いつも大切にしていたはずだし、
「……あ……」
 屈《かが》みこんで覗《のぞ》いた机の下。
 机の裏板と壁《かべ》の間に隠れるようにして、お守りはそこに落ちていた。
 手を伸ばし、拾い上げる。無残に絡みついた埃《ほこり》を必死に払い、元のデスクライトに今度はちゃんと結んでぶら下げた。
 落としてしまっていたのだ。息をついて思う、見つかって本当によかった。だけど。
「……いつから、落ちてたんだ?」
 鼓動が、早まった。
 松澤のことを忘れるわけがないと言った。確《たし》かに自分はそう言った。だけど本当に? 本当に一時《いっとき》たりとも、忘れたことなんかなかったか?
 今日《きょう》も松澤からの手紙は届いていないけれど、それでも忘れたことなんかないと誓えるか?
「ち……誓える、とも」
 じゃあどうして、お守りをなくしたことに、今の今まで気付かなかった?
「……っ」
 違う。違う違う、そういうことではない。そういうことではなくて――そうだ。
 手紙が来ないなら、こっちからまた出せばいい。どうして今までそうしなかったのだろう、今すぐに手紙を書こう、そして出そう。
 なぜだか震《ふる》える手で、引き出しから便箋《びんせん》を引っ張りだした。なぜだか震える指で、ボールペンを握《にぎ》り締《し》めた。書こう。書けばいい。それでいいんだ。
「……『拝啓、松澤』」
 画数の多い字を一気に書いて、そして、ペンが止まった。
 拝啓、松澤。
 その続きは――
「『おまえは、俺《おれ》のことが』」
 ――おまえは、俺のことが、好きか?
「……うぅぅぅぅ―――っっ!」
 唐突な癇癪《かんしゃく》が理性をさらった。あっという間に俺の両手は、便箋をクシャクシャに丸めてしまっていた。部屋の隅のゴミ箱目掛けて思い切り放《ほう》り、ペンを投げだした。
 呆然《ぼうぜん》として、目を閉じる。
 一体なにをやっているんだ。
 俺《おれ》のことが好きかだと? そんなことを聞いて、それでどうする。
 松澤《まつざわ》が自分を好いてくれていたとして、それで?
 好きじゃないとして、それで?
「……俺は……バカ、か?」
 まだ痛む足を引きずって、部屋の隅まで步いた。ゴミ箱を外れて落ちている紙屑《かみくず》を拾い上げた。丁寧《ていねい》に、丁寧に、手のひらで擦《こす》って懸命《けんめい》に伸ばして、元のように戻そうとした。
 丸めて捨てられたその便箋が、まるで自分の心そのもののように思えていたのだ。捨てたくなんかない。こんなふうに、グチャグチャに丸めて、放《ほう》り捨ててしまいたくなんかない。
 だけど、
「……バカ、なんだな……」
 あんなに大事だったものがどんな形をしていたか、思いだせなかった。
 どんな色をして、どんな熱《あつ》さで、どんな匂《にお》いをしていたか、思いだせなかった。
 あれほど大事にしていたのに。絶対に失うまいと思っていたのに。
 それなのに、
「こんなふうにしちゃったら……もう、戻らないじゃないか……っ」
 丸められて投げ捨てられたそれは、元の形には戻らないのだ。
 元の形を忘れてしまったから。
 そして今、くっきりと浮かび上がるのは、元のものよりもっと鮮《あざ》やかな形。もっと鮮やかな色。確《たし》かな重さ、確かな温度、確かな匂い。
 それは誰《だれ》をも寄せ付けない、ツンドラの温度の冷たい目をしていた。澄《す》ました人形のような背中をしていた。だけど時折、嬉《うれ》しそうに笑った。恥《は》ずかしそうに俯《うつむ》いた。意味のわからないことを言って、意味のわからないことをして、俺を散々に振り回し、自転車の後ろに乗せてさらった。嵐《あらし》のようで、元寇のようで、壊《こわ》れやすい水風船のようだった。
 そのものの名を、相馬《そうま》といった。
 紙屑はゴミになり果てたのだ。
 だけど、捨てられない。捨てることはできない。元に戻すこともできないまま、ただ両手に握《にぎ》り締《し》めていた。
 やばかった。
 泣いてしまいそうだった。
 午前○時に大の男が、一人部屋にこもって泣いてしまいかけていた。
 だから、まずは便箋《びんせん》を大事に引き出しにしまいこんだ。それから、足音を殺して台所へ降りた。冷蔵庫を開けた。ビールがあった。ありったけ盗みだして、部屋に運んだ。
 こんな時は酒盛りしかない。男の本能がそう告げていた。
「かっ……乾杯!」
 一人っきりでプルトップを開けた。やけくそ半分、つまみもなしに目をつぶり、苦い液体を一気に呷《あお》った。

 缶を二本も空け切らないうちに、涙の気配《けはい》は押《お》し潰《つぶ》されて、なかったことになっていた。

「……なあ、まつざわぁ……。おまえさぁ……もしかしてぇ、つきにかえっちまったんじゃないのかぁ……? だってさぁ、おまえのでんぱ、とどかねえもん……とどいてねえんだもん……ひでえなあ、おまえはぁ……おれのことなんかわすれてぇ、つきでたのしくやってんだもんなぁ……ちょこもくれねえでさぁ……だから、おれも、わすれちまうんだ……おまえがおれを、おいていったから……」
 ゲコ、と鳴ったのはカエルじゃない。げっぷだ。
 ひでえなあ、ひでえなあ、と繰《く》り返していた自覚はあった。
 酔っ払い切った自分の他《ほか》に、もう一人の自分が部屋の中にいるような気がしていた。
 そいつは言った。

「……ひどいのは、だれが、だれにたいしてだ……?」

 そんなこと、知るものか。
 俺《おれ》は酔っ払っているんだ。
 閉じた目蓋《まぶた》の裏に浮かんだ顔が誰《だれ》だったかなんてことも、――知るものか。

       4

 元はと言えば、こいつが悪い。
 寝ゲロの中で目が覚めたのも、起こしに来た母親に何年かぶりにビンタされたのも、頭が痛いのも、気持ちが悪いのも、腫《は》れた目蓋が一重《ひとえ》を超越してゼロ重になっているのも、全部こいつが――
「……ぷはぁ」
「ぎゃっ!? 酒くさっ!」
「はっはっは……」
 悪いのだ。
 と、
「おぅっ!」
 ゴン、と額《ひたい》に衝撃《しょうげき》。ただでさえ痛む頭が、さらにやばいことになる。
「な、なにをする……」
「頭突きしたのよっ! くっさい息かけないでくれる!? もっと離《はな》れてよ! ……もっと!」
 相馬《そうま》は自転車を漕《こ》ぎながら、後頭部で荷台の俺《おれ》に攻撃《こうげき》をしかけてきたのだ。なかなか器用で、手ごわい奴《やつ》。
「もー信じられない! なんで平日の朝に酒の臭《にお》いプンプンさせてるわけ? こっちまで酔いそう!」
「はっはっは……」
 住宅街を二人乗りで走り抜けながら、頭痛と吐き気をこらえて笑った。空の色も風の温度も、今日《きょう》の俺には無関係だ。そんなモンを楽しむ余裕はない、今はこみ上げるゲロを飲みこむだけで精一杯なのだ。
 そう。空の色も、風の温度も、今日も迎えに来た相馬の思惑《おもわく》も、目の前の髪の匂《にお》いも、
「なっ、なにしてんのよ!?」
「はっはっは……髪の匂いをかいでいるんだ……スゥー……」
「いやーっ! やーめーてー! もう、まだ酔ってるんじゃないの!? 最悪! オヤジ!」
 ――二日酔いで、本当によかった。
 なにも考えずにいられる。難《むずか》しいことは全部、身体《からだ》の不調《ふちょう》の後回しにできる。
「……相馬」
「ん?」
「……前から思ってたけど、おまえはなんて美人なのだろう」
「やっ……やあね、もう……な、なに言ってんのよ、朝っぱらから、もう」
 自転車は軽快に坂道を一気に登り切った。
「……相馬」
「なあにっ!?」
「吐きそうだ」
 キキキーッ、と、凄《すさ》まじい音を立て、唐突に自転車は急停止した。
 慣性《かんせい》の法則によってバランスを崩しかけ、俺はヘナヘナと地面に両足をつく。その途端《とたん》、スーっと血《ち》の気《け》が頭から下りていくのがわかった。
「田村《たむら》、はい、これ」
 相馬はそそくさとカゴから俺の鞄《かばん》だけを取りだす。なんとなくそれを受け取ってしまうと、
「じゃ、教室で」
 奴《やつ》は軽快に片手を上げて見せ、片足をペダルに乗せて笑った。あの、俺という荷物をお忘れですよ。
「ほら、もう校門見えてるし。すぐそこだし。足、大丈夫だよね。……がんばってね!」
 チャリチャリチャリ、と長い髪を垂らした背中が遠ざかって行く。それをたった一人、道路に突っ立ったまましばらくボーっと見つめ、
「……あっ」
 俺《おれ》はやっと、相馬《そうま》に置き去りにされたことに気がついた。なんという悪どさ、狡猾《こうかつ》さ、いっそ賛辞《さんじ》に値する。
 しかし追いかける元気はなかった。脳貧血の暗闇《くらやみ》が徐々に視界を暗くしていき、
「おっはよ、田村《たむら》! 見てたぞ見てたぞ~! なになに、相馬さんと登校してんの!?」
「やっぱり君ら、付き合えば?」
 ――小森《こもり》。それから、橋本《はしもと》。
「あれー? なんかおまえ、顔色が白いよ? 大丈夫?」
「……え……す……」
「……エム?」
 違う。
 えす、おー、えす。だ。

「……機嫌《きげん》、直った?」
「直ったのは機嫌じゃない。具合だ」
 ちなみにこの場合は『治った』が正しい。
 相馬に置き去りにされた俺は貧血を起こし、幸運にも登校してきた小森と橋本に助けられて保健室に運ばれたのだった。
「なんかまだ機嫌悪そう。いつまでもネチネチと……」
「……悪いのは機嫌じゃない、具合だ」
 そして俺は、恨み骨髄《こつずい》だ。
 一時間目の途中で教室に復帰できたものの、腹の虫はおさまらない。三時間目後の休み時間になる今この瞬間《しゅんかん》まで、一秒たりとも許すことなく、俺は相馬を恨み続けていた。
 だってひどくないだろうか。気持ちが悪いと訴えた俺をわざわざ置いていくなんて、そうだそれにそもそも俺は足を捻挫《ねんざ》していて、それだって相馬をかばっての怪我《けが》で、
「ね、田村、そんなことよりも!」
「……そんなこと、だぁ? 俺は保健室でマーライオン(シンガポール)の如《ごと》く滝ゲロを吐いて、保健の先生までもらいゲロするところだったんだぞ!? そ、それを、そんなことだとぉ!? だいたいおまえなあっ!」
「ごめんごめん。それで、あの……携帯の番号、交換しない? 昨日《きのう》言おうと思ってたんだけど、ついつい言いそびれて」
「持ってない」
「……うっそ!」
 しんじらんない――と口パクで呟《つぶや》き、相馬《そうま》は外人のように肩をすくめてみせた。な、なんだよ、携帯を持っていないのがそんなにエキサイティングかよ。
「俺《おれ》に用事があるんだったら、うちの電話にかけりゃいいだろ! 知ってるだろうが、『田村《たむら》先生のおうちの番号』ぐらい」
「……知ってるけど」
 小さく答えて唇を尖《とが》らせ、相馬は俺の机に頬杖《ほおづえ》をついた。おまえの大好きな田村先生の電話番号が気に食わないとでも言いたいのだろうか。
「家の電話じゃ、かけにくいよ」
「うん、そうね! うちの兄貴が出ちゃうかもしれないしね! だからあんまりかけないでね!」
「なにそれ! ひっどい……意地悪!」
「ははは、よくわかったな、意地悪してるんだ。おまえが泣くまで意地悪し続けてやる。具合が悪いのに置き去りにされた、俺の悲しみを身をもって知れ!」
「……だーかーらー……もー、謝《あやま》ってるじゃないのー!」
「いつ!? どこで!? あっ、もしかしてさっきのごめんごめんのことか!?」
 呆《あき》れたような相馬の目。まだなにか文句があるのかと、さらに言い募ってやろうとしたその時だった。
「――あ、ほんとに相馬|広香《ひろか》じゃん」
 少し離《はな》れたところから聞こえてきた声。
 相馬はそっちを振り向くと、ぱくっ、と口を閉じた。俺もつられて声のする方を向く。
「へー、ウチのがっこに来たんだ。相馬」
「意外だよね」
 開けっ放しになっている教室のドアの向こうだ。廊下から女子二人組が相馬を見て、なにやらおしゃべりに興《きょう》じていた。噂話《うわさばなし》なら、普通もっと本人に聞こえないようにするだろ、と言いたくなるような遠慮《えんりょ》のない声音《こわね》で。
「……なんだ、あれ。おまえのこと話してるんだよな? ……知り合い?」
「……」
 相馬は二人組から視線《しせん》を外さないまま、口を固く閉ざしている。
「連絡網で回しとくー? 相馬が社会復帰してたよ、とか言って」
「なにそれ、くっだらねー。ていうか、学校来てなかったくせに、あたしらと同じ高校受かるとかいって、なんかビミョーじゃねえ?」
「あたしらがアホなだけっしょ」
 ケタケタケタケタ。
 と、奴《やつ》らの笑い声は聞こえた。
 そうして相馬《そうま》を上から下まで無遠慮《ぶえんりょ》に眺め回し、「ま、いいか。いこいこ」と。
「……まあいいか、ってなんだよ」
 二人組は去って行ったが、関係ない俺《おれ》まで眉《まゆ》をひそめたい気分だった。一体あいつら、なんなんだ。
 無遠慮な声。不躾《ぶしつけ》な視線《しせん》。相馬のことを見下して――というよりも、自分たちと同じ人間だなんて欠片《かけら》ほども思っていないかのようなあの態度。
「変な奴らだな」
 同意を求めて相馬の方へ向き直るが、
「……相馬?」
「……」
 今はもう誰《だれ》もいないドアの方を見たまま、相馬は石のように硬くなっていた。
 俺の声も聞いているのかいないのか、真っ白な顔も、細い肩も、指先も、髪も、視線も、どこもかしこも硬くなって、微動だにしない。
「どうした? ……変だぞ、おまえ」
「……あ、あたし……」
 冷たい海に投げこまれた人のように、相馬の顔は血《ち》の気《け》を失っていた。そして震《ふる》える声をなんとか絞りだし、
「……あっち、いこ」
 と。
「あっち?」
「あっちいこ、田村《たむら》」
 俺の手を掴《つか》んで立ち上がる。ドギマギしている場合でもなさそうなのは、相馬の顔を見ればわかった。
「あっち、って……もう四時間目が始まるだろ」
 相馬は無言で俺の手を握《にぎ》り締《し》め、立ち上がらせてどこかへ引っ張って行こうとするのだ。
「相馬。相馬って。……なあ、ちょっと!」
 もちろん、その気になれば簡単《かんたん》に振り払える。俺の手を握る相馬の指は、折れそうに細くて、力がない。だけど、
「いいから行こって言ってるでしょ!?」
 必死に俺を引きずりながら振り返り、相馬は悲鳴のような声を上げた。
 それに気づいた何人かが、驚《おどろ》いたように相馬を見た。
 俺《おれ》は引っ張られるままに足を進めるほかなかった。こんな声で叫んで、こんな目をしている奴《やつ》の手を、どうすれば振り払うことができただろう。
 相馬《そうま》は走りだした。
 教室から逃げるように、声も上げず、ただひたすらに走った。
 だが、長い廊下の果てには壁《かべ》しかなく、階段を上がっても下がっても教室しかなく、
「……なあ、どこまで行くんだよ」
 尋《たず》ねても、相馬は答えない。ただ前へ、前へ、――少しでも教室から遠いところへと。行くあてなんか、絶対にないのだ。
「……相馬」
 無視。
「あのさ、お忘れのようだけど、俺、足が痛いんだが」
「……あ」
 相馬は雷に打たれたみたいに、唐突に立ち止まった。躍《おど》った髪が鼻先で揺れた。
 息をつき、
「ほら、もうすぐ授業だ。戻ろうぜ」
 長い髪に隠れるように俯《うつむ》いた相馬の顔を覗《のぞ》きこむが。
「……おまえ……どうしたんだよ?」
 立《た》ち竦《すく》んだ相馬は、見たこともない表情をしていた。
 目を見開き、足元を凝視《ぎょうし》し、唇を震《ふる》わせている。
「……さっきのあいつらのせいか? なにかあったのか?」
「な、んでもない」
「なんでもない奴が、こんなとこまで逃げてくるかよ? それにそのツラ、なんでもないってツラじゃねえし」
「……なんでもない、ってば」
「相馬――」
 なんだこいつ、と思っていた。
 なんだこいつ、どんどん顔色が真《ま》っ青《さお》になっていくぞ、と。まるで朝、貧血を起こした時の俺のようだ。
 ふっくらした頬《ほお》は見る間に温かみを失い、そして相馬は、すがるように俺を見た。
「お、おなか、」
「腹?」
 その目の縁《ふち》から、透明な涙が一粒だけ転がり落ちた。俺は息をするのも忘れて相馬を見ていて、
「おなか、痛い」
「……へっ!?」
 突然の病状報告。相馬《そうま》はペタン、と廊下に座りこんでしまう。腹を抱え、俯《うつむ》いて、
「おまえ、腹って……なに? マジで?」
「痛いの! おなか、痛い……っ!」
 ぎゅっと閉じた目からは、さらに涙が零《こぼ》れ落ちる。苦しそうに息を詰め、眉《まゆ》を寄せて、背中を丸めて震《ふる》えだす。
 いかん。これは、マジだ。思うのと同時、身体《からだ》は動いていた。
「乗れ」
「田村《たむら》……でも、足、」
「早く」
 身を低くして、座りこんだ相馬に背中を差しだす。相馬は少しグズグズした後、ようやく肩に手をかけて、俺《おれ》の背中に体重を預けた。
 しっかりと背負い直し、保健室へと走りだす。つらそうにしゃくりあげる吐息が首筋に熱《あつ》くぶつかり、俺の足は俄然《がぜん》スピードアップした。
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「熱《ねつ》はないな」
 ピ、と体温計を切る音がして、
「……それにしても田村《たむら》くん、よく会うわね」
「奇遇ですな」
 ははは、ほほほ、と笑いあった。青い果実の保健の先生とは、本日二度目の邂逅《かいこう》だった。
「それにしてもおんぶなんかしちゃって、足、大丈夫なの?」
「悪の権化《ごんげ》の一人や二人、軽いもんですよ」
 ――ニヤリ、とVサインを決めながら、すっかり熱をもってしまった足首に冷たい湿布を貼《は》り付けた。そろそろと靴下を引き上げて、白いカーテンの中に入っていく青い果実の背中を目で追う。
 あの中には、相馬《そうま》が寝ている。
 背伸びして覗《のぞ》こうとするが、
「だめー」
 素早《すばや》くカーテンを閉められてしまった。どケチな果実め。
 上履《うわば》きをつっかけ、小さな机の前に座る。保健室で手当てを受けたら休養届なる用紙に氏名や症状を書き記すことになっているのだ。自分と相馬の分で二枚、ことさらゆっくり記入しながら、奥の会話に聞き耳を立てる。だがひそめられた二人の声はまったく聞き取ることができない。
「……せんせぇ~……書きましたよ~……」
 ほとんど口パク、声を出さずに囁《ささや》いて、そっとカーテンの方へ近づいた。ベッドに寝かされたままうんともすんとも言わない相馬が気になるのだ。
「……せんせぇ~…………?」
 足音を殺して布切れの向こうに耳を近づけ、
「見えてるわよ」
「うおっ!」
 勢いよく中から出てきた青い果実にビビらされる。
「……なんだよ、驚《おどろ》かせやがって……」
「立ち聞きなんかさせませーん。あ、届け書いたのね。じゃあ授業ももう始まってるし、田村くんは教室に帰りましょう」
「相馬の様子《ようす》は? 悪いのか? ……もしかして、盲腸《もうちょう》とか?」
「んーん」
 青い果実は肩をすくめ、なにか冗談《じょうだん》でも思いついたみたいに軽く笑って首を振った。
「もっと精神的なモノ」
「……精神的な?」
「そう。心と身体《からだ》は表裏一体だから、心が傷つけば身体も傷つくというわけ」
「よくわからんが……病気ではないんだな?」
「病気じゃない、とは言わないけど、そうね……まあ盲腸《もうちょう》とかそういう意味の病気ではないわね」
「そうか。……なんだ、よかった」
 とりあえずは一安心だ。わからないように息をついた。
 しかし、それならば。
「相馬《そうま》ー。まだ腹は痛いのか?」
 青い果実のガードをかいくぐり、カーテンの中を覗《のぞ》きこんだ。
「あっ! エッチ! こら田村《たむら》くん、教室に帰りなさい!」
「そーうーまー」
 返事はなかった。
 腹痛娘は毛布の中にもぐりこみ、ベッドに盛られた小山のように動きもせずに丸まっている。わずかにこぼれた髪だけが、そこに相馬がいる証《あかし》だった。
「病気じゃないなら、教室に帰ろうぜ。あんまりグズグズしてると、クラスの奴《やつ》らにかえって余計な詮索《せんさく》されるかもしれないし」
 教室を出てきた時、少なくない数の奴らが相馬を驚《おどろ》いた目で見ていた。あの騒《さわ》ぎが、もしかしたら相馬を教室に戻りづらくさせているかもしれない、と思ったのだ。
「なー、相馬やーい」
 しかし、相馬はやはり返事もせず、動きもしなかった。
「……この授業が終わったら昼休みだぞ。今日《きょう》は……その、なんだ。一緒《いっしょ》に食ってやるから。小森《こもり》と橋本《はしもと》も一緒かもしれないけど、あいつら、きっとすごい喜ぶぞ。なんといってもおまえは、び、美人だから」
 おぅ、言っちまった。
 これは俺《おれ》(素面《しらふ》)にとって、ものすごい、ものすごいサービスカンバセーションだ。舌は攣《つ》りそうだし歯茎からは血が出そう。だから相馬よ、
「……出て来いって」
 ――反応は、なかった。
 やっぱりだめか、こんなもんじゃ。ため息をついてあきらめた。毛布の小山に背を向けて、
「俺、戻ります」
 青い果実に小さく頭を下げた。が、
「……あー……あのさー、田村《たむら》くん」
「は?」
「私、ちょっとタバコ吸ってくるから、留守番しててくれない? 一本だけだから……えっと五分ぐらいかなー?」
「……はぁあ?」
 あまりにも唐突に、青い果実は奇妙な作り笑いを浮かべ、私物らしいポーチをあたふたと引っ掴《つか》む。そしてそのまま、
「じゃ、すまんね! よろぴこ!」
「……よろぴこぉ?」
 同級生なら血を見るまで問いただしてやりたいセリフを残し、なんと本当に出て行ってしまった。一体なにを考えているのか、もしかしてただの青い果実ではないのか?
「……意外と、熟《う》れ熟《う》れだったりして……? なあ、相馬《そうま》。わあ!」
 小山を振り返ってみて驚《おどろ》いた。
「うっ……うっ、うっ……い、行かないで……っ」
 いつの間に動きだしたのか、毛布をわずかに持ち上げた隙間《すきま》から、相馬は俺《おれ》を見つめていたのだ。それも盛大に泣きながら、腹ばいになって手足を丸めた亀《かめ》の姿勢で。
「な、なんだよおまえ! そりゃ留守番だしどこにも行きはしないが……なんだ、その……俺じゃ不満か? 先生を呼び戻すか?」
 泣きじゃくる相馬は首を横に振る。
「ち……近づいて、いいか?」
 コク、と小さく頷《うなず》くのを見てから、ベッドの脇《わき》の丸イスへと移動した。俺はここの留守番を仰《おお》せつかったのだ、これも職務《しょくむ》の内――ってことでよろぴこ。
「た、田村《たむら》、あたし……」
 ボタボタボタ、と相馬の頬《ほお》を、さらなる涙が汚す。髪は顔に張り付いているし、枕《まくら》は濡《ぬ》れてしまっているし、かなりひどいありさまだ。
「……あたし、また、教室から逃げてきちゃったよ。また戻れなく、なっちゃうのかな……?」
「えーと、だな」
 努めて落ち着いた声で尋《たず》ねた。
「教室から逃げてきたのは知ってる。でも、」
 ピク、と亀の甲羅《こうら》が震《ふる》えた。
「また、ってのはなんだ」
「う……」
 白い手が、シーツをきつく掴み締《し》めるのがわかった。そして相馬はなにかを言おうとし、しかし躊躇《ためら》って唇を噛《か》む。それを幾度か繰《く》り返して、ようやく「あのね」と切りだした。
 その細い声は、
「あたし……去年、学校行ってないの。……不登校なの。中三まるまる……行けなかったの」
 俺の息の根を止めた。
「……は?」
 相馬《そうま》が、不登校?
 この、存在するだけで誰《だれ》の注目をも集めるだろう眩《まぶ》しい女が?
 嵐《あらし》のような、この相馬が?
「でも、高校は、頑張って通おうと思ってた……お、思ってたのに、さっき、中学で一緒《いっしょ》だった子達と会っちゃったら……どうしよう、みんなに不登校ってばれちゃう、弱くてダメないじめられ女だってばれちゃう、って……そしたらおなか、痛くなって……」
 ――連絡網で回しとくー? 相馬が社会復帰してたよ、とか言って。
「さっきの、あれか」
 それはさっきの、あの、惨《ひど》い言葉と視線《しせん》の主《ぬし》どものことか。
「あいつらがおまえをいじめたのか」
 あいつらが、おまえみたいな女を、似つかわしくない、そんな目に。
「……違う」
「でもあいつら! あの言い草……なんなんだよ!?」
「違うの。……敵は、」
 クラス、全部。
「っ……」
 立ち上がりかけていた尻《しり》が、ストン、と椅子《いす》に落ちた。握っていた拳《こぶし》が情けなく解《ほど》けた。
 それは、救いようがないほど『ありがち』な話だった。
 美人で目立つ相馬に、一人の男が告白した。その男もまた女子のアイドル的存在だったから、相馬はそいつを好きでも嫌いでもなかったが、必要以上のやり方で振った。そうする必要があったのだ。女子の標的にならないためには。
 だけどそれは、甘かった。その男が相馬をどうするかまでは、相馬の想像は及んでいなかった。相馬はある日突然に、男子全員の標的になった。それは卑屈な憧《あこが》れの裏返しかもしれなかったが、男につられた女子どもに、そんな理屈は通じなかった。
 誰も、相馬を助けなかった。
 相馬は思い切り弾《はじ》き出されて、二度と教室には戻れなかったのだ。
「これが、これがね、」
 鼻をすすり、相馬は亀《かめ》のまま、一度だけ「えへ」と笑った。
「これが――あたしがなにより隠したかった、ひみつ。なかったことにしたかった過去。田村《たむら》にだって、知られたくなかった」
 なんだよそれは、とシーツを叩《たた》いた。
「かっ、隠すことなんか、ないじゃないかっ! 不登校がなんだよ、俺はそれを知ったからって態度を変えたりなんかしないぞ! ……見くびるなよ!」
 わかっていたのだ。
 こうやって笑いながら泣く相馬《そうま》が、血を流しているのはわかっていた。
「……そうだね。田村《たむら》は、そんなことでヒトを嫌ったりしないよね。嫌うのは……あたしなんだ。弱い自分を一番嫌ってるのは、このあたし。だいっきらい……こんな奴《やつ》」
 偽の笑顔《えがお》が、やがてゆるやかに崩壊《ほうかい》する。俺《おれ》が見ている前で、亀《かめ》の姿勢のままで、相馬は再び激《はげ》しく泣いた。
 相馬の過去はまだ浅いところに、埋葬もされずに放置されているのだ。たった二人分の視線《しせん》で、呼び覚まされてしまう新鮮《しんせん》さで。
 そしてそんな弱さを誰《だれ》も責めてはいないのに、世界中でただ一人――相馬自身だけが、大嫌いだと斬《き》って捨てているのだった。
「あたしには、学校って奴は、難《むずか》しすぎるんだよ……クラスの誰かが話す言葉、クラスの誰かの表情、態度、……この目に見えているそういうものが、本当かうそか、あたしには見分けられない。今日《きょう》仲良くしていても、明日《あした》仲良くできるかどうかわからない。いつもいつも、それって本当? あたしのこと好き? 嫌い? そうやって疑うことしかできない。だって、あたし……見極めに失敗して、イジメにあったんだもん。驚《おどろ》くよ、夜が来て、朝になって、登校したら、みんな……みんな、敵なんだよ? 昨日《きのう》はバイバイ~って言ってたじゃん、また明日ね~って言ってたじゃん……それが、なんで? ねえ、なんで? なんであんなことができるの?」
 壊《こわ》すのが恐ろしくて、本当にそっと、その背中に触れた。
 保健室の毛布越しに、震《ふる》える甲羅《こうら》をゆっくりと叩《たた》いた。
 泣くな、相馬。
 おまえは美人だ。おまえは嵐《あらし》みたいなすごい奴だ。だから泣くな。
 泣かないでくれ。
「……高校に行こうって思った時、決めたことがあった。そういうの、全部『切ろう』、って。……友達なんかいらない。あたしを好きっていう奴なんか信じない。そうやって、自分を自分で守る。三年間戦い抜いて高卒の資格を取る、それだけでいいって。……なのに、たったの、あれだけで……っ! あれっぽっちのことで、同じことを繰《く》り返してるんだよ! あたし、……弱いままだったんだよ! 何一つ、成長なんかしてなかったんだ……それで……」
 一生、このままなんだ。
 ――相馬の言葉は、なによりも深く相馬自身の胸を抉《えぐ》っただろう。そんなことない、と繰り返す俺の言葉などでは埋めることもできないぐらいに。
「……こんなふうに、なりたくないのに……っ」
 あー、あー、と泣く相馬に、一体なにができただろうか。
 ただ立ち尽くし、その背中を叩く以外に、どんなやり方があったのだろう。なぜだか泣きたくなってくるのは、相馬《そうま》の涙がうつったのだろうか。
「……田村《たむら》くん。ご苦労様」
「あ……」
 静かな声に振り向くと、青い果実が立っていた。
「もう十五分も経《た》っちゃったわ。そろそろ本当に、教室に戻りなさい」
 すこし皺《しわ》っぽい白衣からは、タバコの臭《にお》いはしなかった。

「田村ってばー!」
 小森《こもり》の質問|攻撃《こうげき》を避けつつ、パンを買いに購買部《こうばいぶ》への道のりを急ぐ。
「教えてよー、相馬さんってばどうしちゃったわけ?」
「だからさっき言っただろ。持病の癪《しゃく》が痛んだのだ」
「だから癪ってなにって言ってるじゃん!?」
 ――四時間目の途中から授業に復帰して以来、小森はずっとこの調子《ちょうし》なのだ。授業中は回したメモで、昼休みになってからは、
「ねーってば! 結構|他《ほか》の奴《やつ》らも心配してたんだよ? 女子は『私達なにもしてないよね、今は』とか言ってるし、男はもーみんなして、なんで田村なんだなんで田村なんだ、って」
 ……この大騒《おおさわ》ぎ。
 いい加減うっとうしくて、もう一方の男に助け舟を要請《ようせい》してみた。
「橋本《はしもと》、小森に一言いってやってくれよ。メガネキャラってことは、おまえは冷静なお兄さんタイプのはずだ」
「なんで田村なんだなんで田村なんだ」
「ははは、はしもっちゃんうまい!」
「お、おまえらなあ……」
 だろ? だろ? と笑いあっているつまらない奴らに愛想《あいそ》をつかし、もういい! と步いていこうとしたその時だった。
「……あっ」
 何人かの列ができている、ジュースの自動|販売機《はんばいき》の前。
「ん? 田村、どうした?」
「……いや、なんでも……」
 固まって騒がしくしゃべり続けている女子グループの中に、見覚えのある顔を二つばかり見つけてしまったのだ。
 間違いない、さっき教室までやってきて、相馬を不躾《ぶしつけ》に眺めていった奴ら。
 そして、相馬《そうま》を教室から追いだした奴《やつ》らだ。
 おまえらなあ、と詰め寄りそうになったのはしかし一瞬《いっしゅん》のことだった。俺《おれ》はすぐにそいつらから目を離《はな》し、そ知らぬフリで步きだす。文句をつけたい気持ちはあったが、今、この俺が奴らになにかを言っても仕方ないだろう。そう思い直せるだけの理性はあった。
 だが、
「そーそー! そしたらその女がさあ、相馬って言うんだけどね、いるんだよねー! 思わずあたしら見に行っちゃってー、すげぇ受けたし!」
「あっはっは、マジでぇ!? うちらも見に行くべ、不登校児!」
 ――それは、ないんじゃないか。
 飛びこんできてしまったその名前に、その会話に、一気に身体《からだ》の温度が下がっていくのがわかった。頭は逆に熱《あつ》くなっていく。
 相馬は、泣いていたんだ。
 泣いていたんだぞ。
「……橋本《はしもと》、悪いけど俺の分のパン買ってきてくれない? これ金ね。コロッケパンよろしく」
「えぇ? それは別に構わないけど……コロッケパンだけでいいのか?」
「あー、田村《たむら》逃げるつもりかよー、俺は追及を諦《あきら》めないぞー」
「……コロッケパン、かける二でいい。あとから教室に戻るから」
 階段を下りていく二人と別れ、俺はまっすぐに自動|販売機《はんばいき》の前へと步きだしていた。
 走りたいのをこらえ、とっくに他《ほか》の話題へと興味《きょうみ》を移している女子グループヘ近づいていく。仕方なかろうがなんだろうが、声をかけずにはいられない。
「なあ、ちょっといいか」
「え? 誰《だれ》? 誰の知り合い?」
「しらねー」
 話の輪《わ》の中に割って入り、
「おまえと、おまえ。さっきうちのクラス……B組に来てただろ」
 その二人の顔を指差した。当然のことながら、
「……なにこいつ。いきなりおまえ呼ばわり? かなり失礼じゃない?」
 四人分の視線《しせん》をつま先から頭までジロジロと浴びせかけられる。
「あぁ、そういえば……ほら、さっき相馬見に行った時にいた奴じゃねえ?」
「えぇ? ……あー! あー、あー……そうだそうだ。あまりにも地味すぎて覚えてなかった。なに? 相馬の話でも聞きたい? あるよー、いっぱい。楽しい話も黒い話もあるよー」
 キャハハハ、と弾丸のような笑い声が炸裂《さくれつ》した。これよりもっとひどいもので、相馬は全身を貫かれ続けていたのだと思った。
「聞きたい話なんかない。おまえらに、俺が言いたいことがあるんだよ」
「……いきなり感じ悪くねえ? なに? 何様? ていうか、おまえ誰《だれ》?」
「一Bの田村《たむら》。……さっきおまえらがああやって相馬《そうま》のことをあれこれ言いに来たせいで、相馬は保健室送りになった。また学校に行けなくなったらどうしようって泣いてるんだぞ」
 は? と二つの顔が、同時に険しく歪《ゆが》んだ。
「……それで? それがあたしらになんの関係があんの?」
「おまえらのせいだって言ってるんだよ! あんなふうに、わざわざ笑いものにするようなことはもうやめてくれ!」
 ポリポリポリ、と女の一人が頭をかいた。
 もう一人は、つまらなそうに手にしたジュースを飲み干した。
 あとの二人は、「めんどくさそーだから先戻るわ」と步き去っていった。
 そして。
「……あのさあ、田村、だっけ? あんた、なに勘違いしてんの?」
「勘違いなんかした覚えはない」
「してるんだよバカ。あたしら、相馬を確《たし》かに見に行ったけど、保健室に行かなきゃいけないようなことはいっこもしてない。手だって出してないし、学校に来るな、なんてこともひとっことも言ってない。直接会話さえしてないんだけど」
「あたしらが見に行ったぐらいで、なに? 保健室? 不登校? バカなんじゃねえの? 同じ学校なんだから会う時は会うだろ。それともなに、あたしらに学校来るなって言いたいわけ?」
「う……」
 腕組みした二人組に気圧《けお》され、思わず一步後ろに下がった。
「言っとくけど、あたし、相馬のこと嫌いなんだ。中二の時からずっと。あんたにはわからないことが色々あってね。だから保健室に行こうが、学校に来なくなろうが、知ったことじゃないんだよ。もっと正直に言ってやろうか? 『いい気味』としか思わない」
「おまえも気付けよ。学校に来るの来ないのって、勝手に相馬だけが騒《さわ》いでるんだよ。誰もなにも言ってない。あいつ一人が、勝手に、騒いでるの。そんなことまであたしらのせいにされたらたまんないんだよ。学校に来るも来ないも、相馬がしたいようにするだけだろ」
「第一おまえ、ほんとに誰? 名前じゃねえよ、相馬のなに?」
「お、俺《おれ》は相馬の……」
 なんだろう。
 言葉に詰まってへどもどしていると、
「なんだ。顔につられたバカかよ」
 唾《つば》でも吐きかけるようにして、女の一人が言い捨てた。思わず顔を上げ、なにか言い返してやろうと息を吸った。
 その瞬間《しゅんかん》だった。
「――なにしてるの」
 静かな、低い声だった。
「田村《たむら》……あんた、ここで、なにしてるの」
 反射的に振り向いていた。泣《な》き腫《は》らした顔で立っている相馬《そうま》を、言葉もなく見返していた。
「あ、あの、俺《おれ》」
 相馬は明らかに怒っているのだ。だから説明しなくては、と、
「……おまえがまた学校に来られなくなったら困るから、落とし前をつけようと」
「勝手なこと、しないでよ!」
 怒鳴《どな》られて、なにも言えなくなった。
 確《たし》かに俺は勝手なことをしていた。
「ひっさしぶりじゃん、相馬。あんたさあ、全然変わってないんだね。相変わらず男に泣き顔見せて、いいように使ってるんだ? すげえ女」
「高校なんか来る必要なかったんじゃねえの? 一生そうやって男使って生きていけそうじゃん。あーあ、くっだらねー。田村、あたしらもう行くから」
 叩《たた》きつけるような冷笑。去り際の、興味《きょうみ》を完全に失ったような目。相馬は奴《やつ》らを見ることもできず、俺は奴らに文句を言うこともできなかった。
 その場に残されたのは、俺と相馬の二人だけ。
「……なんていうか……その……」
 死ぬほど気まずい思いをしながら、そっと相馬の方を盗み見た。そして、気がつく。
 鞄《かばん》。
 相馬は鞄を持っている。
「おまえ……帰るのか?」
「……田村には関係ないでしょ」
「待てよ、だって――」
 学校にいたいんじゃなかったのか?
 問いを発するより少し早く、相馬は俺に背を向けた。
「放《ほう》っておいてよ……あたし、帰るって決めたんだから。田村に止める権利なんかないでしょ。それから、今みたいな勝手なことも二度としないで。あたしは、」
 その背中は泣いているみたいにひどく震《ふる》えていたけれど、
「……あたしは、誰《だれ》の助けも、いらないんだから!」
 遠ざかっていくのをただ見ているしかできなかった。両足は床に縫《ぬ》い付けられたようで、相馬を追うこともできなかった。

「……やっちまった……」
 身を潜《ひそ》めたのは、便所だった。
 教室に戻る気にはなれず、個室の便座に座りこむ。タイルの足元を見つめ、
「……はあ」
 ため息。
 余計なことをしてしまった。その上、あの女二人に言い返すことさえできなかった。
 腹はもちろん、立っているのだ。嫌《いや》な奴《やつ》らだと思う。もしもあれが男だったら、殴ることもできたかもしれない。
 だけど、奴らの言っていることのすべてを否定することはできなかった。
 そうなのだ。
 相馬《そうま》自身が、帰ると言ったのだ。そう決めたのだ。そう決めて、步きだした。たとえばそれを捕まえて、机に無理やり縛《しば》り付けたとして、――そんなことに意味があるわけがない。
 帰りたいと言う。友達なんかいらないと言う。助けなんかいらないと言う。ざまみろ、と言う。
 それは全部、相馬自身が決めて、相馬自身が語った言葉だ。だから誰《だれ》にも止められないし、誰にも文句はつけられない。
 だけど、……だけど。
「……なんなんだよ……あいつは」
 ネクタイを握《にぎ》り締《し》め、身を捩《よじ》った。噛《か》み締《し》めた顎《あご》が痛みだした。
 こんなにも苦しいのは、そしてこんなにも、奴をただ行かせてしまったことを悔やんでいるのは、相馬が言葉と裏腹《うらはら》のことをして見せたせいなのだ。それを知ってしまったせいなのだ。
 相馬はこんなふうになりたくない、と泣いていた。
 相馬は俺《おれ》を迎えに来て、弁当を作って、寄り道に誘った。
 相馬はシーツを持ち上げて、保健室を出ようとしていた俺を呼び止め、すべてを話した。
 相馬は――多分《たぶん》、ずっとあの場所から、通えなくなった学校を見ていた。
 こんなふうに帰るのなら、あんなふうに泣くなよと思う。友達がいらないなら俺などに構うなと思う。助けがいらないなら俺を呼び止めるなと思う。ざまみろと思うなら、……あんな顔をして壊《こわ》される校舎を見下ろすなと思う。
 それができないなら、最初っから、
「強がってんじゃねえよ、バカ女」
 ――最初っから、強がらなければよかったんだ。
 強がりを通せないのなら、帰りたくないと教室にしがみつけ。友達になってと俺《おれ》にしがみつけ。あたしを助けてと俺にしがみつけ。あたしを拒まないでと学校にしがみつけ。
「……ったく、よお……」
 息を殺して目蓋《まぶた》をきつく閉じ、手の甲で乱暴《らんぼう》に擦《こす》った。
 あんな顔をして泣くくせに、なんでそうしないんだバカ女。それで俺がどう思うかまでも、俺には関係ないというのかよ。
 口には出せなかった文句を噛《か》み砕きながら、五時間目のチャイムが鳴るのを聞いていた。

 俺は五時間目に数分だけ遅れ、そして相馬《そうま》は、次の日も、その次の日も、学校には姿を見せなかった。

       5

 今日《きょう》は金曜日《きんようび》で、明日《あした》の土曜日は休日。
 相馬は昨日《きのう》も今日も欠席だから、土日を入れたら四連休か。
「ここでー、たすきがけをするわけだ。二と、三で、六、それからー」
 教師の声。チョークの音。ノートを滑るシャーペンの音。そしてひときわ大きく響《ひび》くのは、
「こっちの一と、こっちの二で……うわ、なんだ、真っ暗だな。すごい天気になってきたぞ」
 窓ガラスを叩《たた》く、凄《すさ》まじい雨粒の弾丸。
 教師までもが雨音に気を取られ、窓の向こうに目をやった。つられて外を見たクラスの誰《だれ》かが傘がねえよと泣き声を上げ、あちこちで笑いが巻き起こる。
 午後から降りだした春の雨は、ひどい土砂降りになっていた。笑いに取り残されたまま、目の前のからっぽの席を見て思う。今日は来なくて正解だったかもな。
 でも――
「せんせー、今日は短縮《たんしゅく》授業にした方がいいんじゃないすかー?」
「はーい、バカはほっといて先行くぞー。俺は車通勤だから雨など関係なーい」
 さらに弾《はじ》ける笑い声の中で、俺は一人、声をひそめて待っていた。
 昨日も、今日も、待ち続けていた。
 今日がダメなら、来週だ。来週こそは、ちゃんと来い。
 おまえの席が空いていると、
「んーと、じゃあ問いの一を、……そうだなー、目の前のおまえ」
「……田《た》、村《むら》、で、す」
「そうそう田村ね。んもー、そんなに怒るなよ。新入生の名前、まだ覚えきれてないんだ」
「……ぅ怒っていませんっ」
 教師と目が合いやすくて仕方がないのだ。

     ***

「田村《たむら》、はしもっちゃんが折りたたみ持ってるって! 一緒《いっしょ》に入れてもらおうぜ!」
「ノーテンキュー」
 小森《こもり》の申し出をしなやかにお断りし、俺《おれ》は選民階層の仕草《しぐさ》で礼を返した。
「えー、なんで? はしもっちゃんの傘は折りたたみのくせにデカくて立派だぞ! なー」
「親父《おやじ》のゴルフ用の奴《やつ》だからな。無理すれば三人ぐらい入れるぞ」
 帰りのホームルームが終わっても、雨は止《や》む気配《けはい》を見せなかった。
 放課後《ほうかご》の昇降口には『傘のある勝ち組』、『傘のある友達がいるまあまあ勝ち組』、そして『傘のない負け組』がひしめきあい、入れろだの貸せだの詰めろだの、阿鼻叫喚《あびきょうかん》の大騒《おおさわ》ぎだ。
 しかし俺はあくまで余裕。
「ゴルフ用の折りたたみ傘、ね……それもよかろう」
 その理由はごくシンプルで、
「しかし、今日《きょう》のところは結構さ。君たちこそ乗せてあげようか? 我《わ》が家の迎えの車に」
 超.勝ち組だから。
「うそっ、マジ!? 乗せて乗せて!」
「ありがたい。田村んちの親、わざわざ車出してくれるなんてマメなんだな」
 鷹揚《おうよう》な仕草で、俺は擦《す》り寄ってきた二羽のひよこの頭を撫《な》でてやった。
「いや、親じゃなくて兄貴だ。免許とったばっかりで、毎日なんだかんだって車に乗りたがってるから、さっきも電話してみたら二つ返事で迎えに来るとさ」
「すばらしい!」
「さすが田村の兄貴、T大理一だけはある」
「たいしたことはないさ……ま、ちなみに予備校などには一切通わず、現役合格していたようだがね」
「ワォ!」
「遺伝子の奇跡を感じるな」
「ははは、よせやい! ただし、来るのは今から三十分後だ。連絡とれたのが携帯で、まだ市外にいるんだと。今こっちに向かってるはずだ」
「えー!?」
 優雅《ゆうが》に高笑いする俺の目の前で、ひよこの片割れ.小森の顔が不満げに歪《ゆが》んだ。
「さんじゅっぷぅん~? 俺とはしもっちゃんち、学校から超近いから、步いて十分もかからないんだけどー。どうする?」
「うーん、やっぱ俺たちは步くか。折りたたみ傘で」
「だなー」
 ねー、と顔を見合わせる二人。仲がいいのは結構だが、俺《おれ》は少し寂しいぞ。
「兄貴の車、乗ってかないのか?」
「うん。四時からのドラマの再放送見たいから。それではさらば、また月曜《げつよう》ー! あ、日曜遊べたら遊ぼうぜー!」
「じゃあな田村《たむら》」
 小森《こもり》と橋本《はしもと》は俺を置いて、「つんつん、おいおい、このぉ~」などと、二人でイチャつきながら下駄箱《げたばこ》へと向かっていってしまう。割と友達|甲斐《がい》がないというか、ちょっとした疎外感というか、おまえら付き合っちゃえよ、というか。
 ポツン、とその場に残されて、こうなると一人で待つ三十分というのも手持ち無沙汰《ぶさた》だった。仕方なく、一度教室に戻ろうかと踵《きびす》を返しかけるが。
「田村くん」
 担任にも覚えられていない俺の名を呼ぶ声。
「その声は!」
 予感とともに振り向いて、
「……やはりおまえか、青い果実」
 さもありなん、と一人|頷《うなず》く。
「青い果実? な、なにかな、それは」
 俺のバックをとっていたのは、予感どおり、白衣姿の青い果実だった。
「どうしたの? 傘ないの?」
「いや、兄貴が車で迎えに来るから待ってるのだ」
 ポケットに両手を突っこんだまま、青い果実は俺の前へと回りこんでくる。
「やさしいお兄さんがいるのねえ。もしかして朝も車で送ってもらってたとか? 捻挫《ねんざ》、まだ痛いでしょ」
「いや、今はそれほど痛くないから、朝は自分で步いて来てる」
「じゃあ、痛かった時には?」
 相馬がチャリで迎えに来てくれてました――とは、なんとなくだが、なかなか言いづらいモノがあった。
「や、ま、そのー」
「あら、田中《たなか》角栄《かくえい》の物まね」
 俺はどんな高校一年生なんだよ、と青い果実を睨《にら》もうとして、気がついた。青い果実はニヤニヤと、人の悪そうな笑《え》みを浮かべているのだ。
「……知ってて聞いたな? 悪趣味《あくしゅみ》だぞ」
「あら人聞きが悪いわね。通勤の途中でかわいい二人乗りを見かけたことがあるってだけよ」
 ほほほほほ、って……あなどれん。
 やはりこいつ、実は熟《う》れ熟《う》れの熟れ年増《どしま》なのではなかろうか。
「……笑いたくば笑うがいい。俺《おれ》だって、他人事《ひとごと》なら笑いたいほどびっくりしたんだ。あの悪の権化《ごんげ》が、いきなりチャリンコで迎えに来てくれたんだぞ。絶対そのあと、金銭とか要求されるかと」
「ううん? 私は別に笑わないし、びっくりもしなかったわよ。だって私は、相馬《そうま》さんはそういう子だってわかってたから」
「そうか。……じゃなくて、はぁ?」
 思わずスルーしそうになるほど、それは自信たっぶりの戯言《ざれごと》だった。わかってた、って、なんだそりゃ。超能力者でもあるまいし、第一こいつ、笑っていたぞ。
「なにを寝言を言っている」
「本当よ? だってわかるんだもの」
「……ちょっと失礼」
 なにやら一気に疲労を感じ、会話を中断してこめかみと鼻柱を親指で刺激《しげき》させていただく。
「あらリンパマッサージ?」……はい正解です。リンパの流れを活性化しなければ、このペースにはついていけません。
 気を取り直して。
「……あのなあ、あんたまだ勤務時間だろ。こんなところで油売ってていいのかよ」
「いいのよ。田村《たむら》くんを見つけたからこっちに下りてきたんだもの。えーと、そうそう、捻挫《ねんざ》の具合を確《たし》かめたくてさ」
「うそをつけ。……またサボリか」
「またとは失礼ね。でも、まあ――うそなのは当たり」
 にっこりと笑ってみせる青い果実を置き去りにして、廊下を步きだしていた。真剣に、今日《きょう》はちょっと限界だ。
 普段《ふだん》と同じにふざけるのも、普段と同じに調子《ちょうし》に乗るのも、今日はこれまで。これ以上はできない。
「田村くん」
「さいなら」
「……あのさ、彼女、あれから休んじゃってるでしょ。本当はね、そっちが気になって君と話しに来たのよ」
 足を止めて振り向いたのは、反射という奴《やつ》だったと思う。
「彼女の話を、しない?」
「……っ」
 彼女という呼び名が相馬を指していることに疑いの余地はなく、そして俺の足は、それきり先に進むことができなくなって、
「……そこに座ろうか」
 促す青い果実の声に小さく頷《うなず》いて見せていた。

 生徒があまり通らない来賓室《らいひんしつ》前のベンチにおとなしく並んで腰掛ける。ふざけもしない。調子《ちょうし》にも乗らない。
 ただ、相馬《そうま》の話をするというなら、俺《おれ》はそれが聞きたかったのだ。
「実はね、私、あの日彼女を早退させちゃったのは失敗だったかなーって思ってる」
「……同感だな。なんで止めなかったんだよ」
「止めたわよ。でも腹痛がひどくて授業を受けられない、病院に行かせてくれ、って言われたら、私にはそれ以上なにもできない。だって私は『保健の先生』だから。……田村《たむら》くんこそ、なぜ止めなかったの」
 ゴォッ、と一際強い風が吹き、窓がガタガタと揺れた。ガラスを伝う雨水は滝のようだ。
 俺はそれを眺めながら、
「……止めたぞ」
 一応は、と小さく付け加えた。あの時、俺は確《たし》かに「待てよ」と言ったのだ。あれは止めたことになるだろう。だが青い果実は化粧っけのない顔を近づけ、
「本当に? 本当に止めたの?」
「……な、んだよ……」
 じっと俺の目を覗《のぞ》きこんできた。
「ふーん、止めたんだ。おっかしいな、田村くんが本気で止めたなら、あの子は帰らなかったと思うけど」
「あっ、あのなあ! 変な責任転嫁《せきにんてんか》はよしてくれよ!」
 思わず声を上げてしまったが、青い果実はなにも言わない。ただ見つめられ、俺は奇妙に緊張《きんちょう》し、
「……俺は、止めたんだ。一言だけだけど、待てよ、って。でも相馬は帰るって言い張って、俺もそう言われちゃったら……なにも言えない、っていうか……」
「さて、ここで田村くんに問題です。帰る、って言った時の相馬さんの本心は?」
「……帰りたくない」
 答えた瞬間《しゅんかん》、
「正解!」
「いっ!」
 ポコン、と頭を叩《たた》かれた。拳《こぶし》でだ。
「なにをする!」
「大げさね。これしきのこと、痛いわけがないでしょ」
「保健の先生が校内|暴力《ぼうりょく》とは……恐れ入る!」
 フン、と青い果実は鼻息をひとつ。
「今のは愛の鞭《むち》よ。あのねえ、ひとつ教えておいてあげる。君は、帰りたくないっていうのが彼女の本心だって知りながら、彼女を引き止めなかった。それはなんていうか知ってる? 『逃げた』って言うの」
「逃げた、って……」
 なんだよ、それは。ひどく理不尽《りふじん》に責められている気がして、この場からも逃げだしたくなってきた。
「あの時の君の本心は私が当てようか。『帰したくない』……正解、でしょ」
「な、なんでそんなこと……」
「決まってる。捻挫《ねんざ》した奴《やつ》が女の子背負って飛びこんできたんだ。それ見てりゃーどんなパープーでもそれぐらいわかるっての。だから君は逃げたって言うのよ。帰りたくないっていう相馬《そうま》さんからも、帰したくないっていう自分からも、君は逃げたの」
「……っ」
 なにも言えなかった。
 黙《だま》りこんだまま、自分の足の先を見つめることしかできない。青い果実の言うことに、反応することさえ怖かったのだ。
「君はさ……なにがあって、逃げたくなったのかな。さすがにそこまでは私にはわからないわ」
 なにも言えないかわりに、俺《おれ》には、わかっていた。
 松澤《まつざわ》だ。
 捨てたくないもの。忘れたくないもの。確《たし》かに存在しているもの。……だけど日々に、過ぎ去っていくもの。
 そういうものである松澤の記憶《きおく》が、俺が相馬に本気で踏みこむのを阻止していたのだ。便所でもにょもにょと唱えた文句を、相馬本人にぶつけさせてはくれなかったのだ。相馬の前で、あんなふうに、身を捩《よ》じらせてはくれなかったのだ。
 いっそ、いっそ完全に、完璧《かんぺき》に、欠片《かけら》も残らないほどに消去されていたなら――
「もう、やめてくれ……っ!」
 嫌《いや》だ。違う、嫌なんだよそれは、嫌なんだ。嫌なはずなんだ。
 青い果実から身体《からだ》を離《はな》した。これ以上、俺の心をグシャグシャに丸め捨てるようなことを考えさせないでくれ。
「……俺は逃げたんだ。ちゃんとわかってる。だから……もう、勘弁しろよ」
 涙だけは零《こぼ》すまい、と、必死に奥歯を噛《か》み締《し》めた。情けないほど涙もろい男なのだ、どうせ俺は。
「……じゃ、最後にひとつだけ言わせて。相馬《そうま》さんが君を迎えに来た日、彼女、お弁当つくってきたでしょう」
 ――なんだって?
 驚愕《きょうがく》のあまり、涙の気配《けはい》を隠すのも忘れて頭を跳ね起こしていた。
「な、なんでそれを……!?」
 けけけ、とその笑い声は聞こえた。
「だから、私にはすべてお見通しなんだってば。それから、放課後《ほうかご》デートに誘ってきたでしょう。行き先は、本屋、ゲーセン、カラオケ」
 もはや返す言葉もなかった。今度こそ俺《おれ》は、青い果実に本気で怯《おび》えていたのだ。なんなんだこいつは、筋金入りのストーカーか、それとも本物の超能力者か――
「なーんてね。驚《おどろ》いた?」
「……は?」
「実は相馬さん、一度一人で保健室に来たのよ。『ある人と仲良くなりたくて、朝、迎えに行ったり、お弁当を作ったりしたけどどうにも不調《ふちょう》なんです。それで放課後も誘いたいけど、どういうところに誘えばいいのかわからない。先生教えてください』……ってね」
「……な、な……」
「だから、教えてあげたの。普通は本屋とかゲーセン、カラオケあたりかな。朝迎えに行ったなら、帰りも送りたいからそのついでに、って言えばスマートに誘えるわよ、って。……このセリフ、聞き覚えある?」
 俺は相当に間抜け面《づら》をしているのではないだろうか。
「ぷっ、なにその顔!」
 ぎゃはは、と青い果実が笑って、その予想が的中していることを思い知らされた。俺は今、間抜け面。
「……な、なんで、保健室にそんなこと、聞きに行くんだよ! 変だろそれ!」
 言えたのはそれぐらいのことだけ。
「友達がいないからじゃない? 担任に言ったら寄り道禁止とかって怒られそうだし……まあ、保健室登校の経験《けいけん》がある子ならではの発想かもしれないけど」
 だから、さ。
 青い果実は顔を引《ひ》き締《し》め、そう言葉を継いだ。
「だから……相馬さんから、逃げないであげてほしいのよ。……これ、教師としての言葉が半分、女としての言葉が半分、ね」

 ――この土砂降りの中を、步いて帰りたい気分だ。
 俺のようなバカで鈍感で卑怯《ひきょう》な野郎には、それがお似合いに違いない。俺は相馬の気持ちというやつを、なにひとつ理解できていなかった。
 こんな俺《おれ》は強風に煽《あお》られて、泥水に倒れ伏し、服を引き裂かれ、靴を失い、縛《しば》られ、ぶたれて、踏みつけにされて、それぐらいでちょうどいいに違いない――

「なんだってあんなところ步いてたんだよ? 迎えに行くって言ったのに」
「……待ちきれなかったんだ」
「へえ?」
 フラフラと校門を出て、雨に煽られながら步くことほんの数十メートル。ちょうど迎えに来ていた兄貴に発見され、俺はまるで誘拐《ゆうかい》されるみたいに、ボロい中古車の助手席に引きこまれていた。
「風邪《かぜ》引かないように頭からちゃんと拭《ふ》けよ。あとシートも」
「……ああ」
 返事だけは辛うじて返したが、渡されたタオルを頭にかぶったまま、手を動かすことは永遠にできそうになかった。
「……おっと……右折ができないぞ、と」
 俺とはあまり似ていない横顔を盗み見た。
 俺よりもずっと賢《かしこ》そうな丸い額《ひたい》。
 俺よりもずっと多くのものを見てきたであろう、大きな目。
 俺よりもずっとずっとたくさんのことを知っているであろう、形のいい頭。
「よし決めた、今日《きょう》は左折だけで家までたどり着いてみせる」
 ……ちょっとバカだが、それでもこいつは、賢いことでは自慢の兄貴だった。小さい頃《ころ》からずっとそうだ。なにかを聞いて、答えが返ってこなかったことは一度もない。それが間違えていたことも一度もない。
 きっとなんでもわかっている。奴《やつ》はなんでも、知っている。
「兄貴……」
「ん?」
「あのさ、去年の夏頃に一度うちに来た、松澤《まつざわ》、って奴のこと……覚えてるか?」
「ああもちろん。あのご家族が亡くなってお葬式があった、かわいそうな子だろ? 忘れるわけがないよ、おまえの初めての彼女なんだし」
 ――彼女。
「松澤は、俺の……彼女、か?」
 頭からすっぽりタオルをかぶって、唸《うな》るように声を絞りだした。
「違うのか?」
「丸二ヶ月、手紙もハガキも来ない。多分《たぶん》、忘れられてる。……それでもあいつは俺《おれ》の彼女か?」
 兄貴はよそ見するのが怖いらしく、俺の方を見ないまま、
「……世の中には自然消滅という概念があることだけ教えておく」
 と、曖昧《あいまい》な返事を寄越した。
 そんなもんぐらい知っている、とは言わなかった。決定的な答えを食らう前に、まだ心の準備が必要な気がしたのだ。
 静かになった車内には、ウインドウを拭《ぬぐ》うワイパーの音だけが異様なトーンで響《ひび》いていた。多分、壊《こわ》れているのだろう。しかし異音を立てながらも、ワイパーは律儀《りちぎ》に雨水を掻《か》き分け続ける。ガラスの両脇《りょうわき》を伝い落ちる水は、小川のようになっている。
 左右に動くその機械《きかい》の腕を、タオルの下から眺めていた。
 言うか、言うまいか、言うか、言うまいか――迷う言葉を後押ししたのは、繰《く》り返し数えたリズムのタイミング。
「……あのさ。バレンタインの時のガラスの……」
「ああ、相馬《そうま》さん? あの子と同じクラスなんだって?」
 う、とそこで詰まってしまった。読んだリズムが乱された。
「……なんで知ってるんだよ」
「母さんに聞いたから。仲良くしてるのか? 俺はあのバレンタインの時のゴタゴタがあって、あれ以来連絡もらえなくなっちゃってたから、実は合格したかどうかも知らなかったんだ。うん、……ほんと、よかった。無事に合格してくれてて、安心した」
「……それは、家庭教師としての責任を果たした、という安心か?」
「え?」
「それとも、……不登校娘を更生させた、というのもコミの感想なのか?」
 ワイパーの音が、規則正しく沈黙《ちんもく》を分断する。
 そして兄貴は、
「そうか。仲良くしてるんだな」
 とだけ言い、小さく笑った。
 だけど、仲良くなんかしていない。昨日《きのう》も、今日《きょう》も、会っていない。
「……なんであいつを振ったんだ」
「おまえに言う必要があるか?」
「……ある」
 明日《あした》も、あさっても、会えない。
 会えないんだ。相馬に。
「俺にはそれを聞く必要が、ある」
 相馬《そうま》は兄貴に告白していた。
 相馬は俺《おれ》と仲良くしたがった。
 相馬は学校に来なくなった。
 そして俺は――「わからない」相馬のことを、「わからない」ままにしておくことが、これ以上できない。
「……端的に言うなら、彼女は俺のことを本当に好きなわけではなかったから。猛勉強して遅れを取り戻す一方で、彼女は内面的にも生まれ変わろうともがいてた。高校に入ったら、二度とこんな失敗はしない。自分は強くなる。なんでもできる女になる。違う自分になる。……ってね。俺はその一環《いっかん》として、選ばれただけだ」
「……一環、って?」
「『年上の人に告白して、付き合えちゃうあたし』の、一環。彼女自身がそう言っていたし、俺だってそれほどマヌケじゃない。本当に好かれてるかどうかぐらいはわかる」
「……そうか」
 タオルの下に顔を隠し、シートに深く身体《からだ》を預けた。
 好かれているかどうかもわからないマヌケは、俺のことだった。
「それで? 相馬さんは元気に通ってる?」
 通ってません、とは口に出せず、マヌケな俺はただ首を横に振った。タオルをかぶったまま、車酔いする寸前まで。
「……いつから?」
「お、ととい。でも、でも違うんだ! 相馬が悪いんじゃないんだ!」
 兄貴の声が冷えたのに気がつき、必死になって声を上げていた。わかってほしかったのだ。
「なんか前の学校で相馬をいじめてた奴《やつ》らが現れて、そいつら、相馬をわざわざ見に来たんだ! それであいつ、具合が悪くなっちゃって……」
「見に、来た」
「……そう」
「見に来られて、それで、学校に行くのをやめたのか。……あんなに苦労して勉強して、やっと受け入れてくれる公立校を見つけたのに」
「違うんだ! やめたわけじゃなくて、ちょっとその、お休みしてるっていうか……なんだよ、そんなに怒るなよ! あいつ、本当にかわいそうだったんだぞ! 奴らものすごく意地が悪くて、性格がひん曲がっていて、」
「雪貞《ゆきさだ》。あのな」
「だからあいつは、」
「……雪貞。聞いてくれ」
 普段《ふだん》、決して人が話している最中に自分の話を差し挟んだりしない兄貴が、生まれて初めて、俺《おれ》の言葉を制した。
「おまえがいくらそうやって心配してやっても、それは解決にはならない。彼女が弱いのは事実だと思う。家庭教師をやってた俺に言わせれば、そんなことで学校を辞められたら、ふざけるな、って言いたいよ。あの努力はなんだったんだ? って」
「……そ、それは、そうだけど……」
「かわいそうだけど、はっきり言って、学校でうまくいかないのは彼女だけじゃない。おまえにだってわかるだろう? 学校というのは子供にとっては残酷《ざんこく》な場所で、誰《だれ》もがどこかで『被害者』になる。それでも、学校に行く奴《やつ》は行くし、行けなくなる奴は行けなくなる。その点で彼女は弱かったのだし、彼女自身が弱い自分を変えようと思わない限り、なにも変わりはしないんだ」
「わ……わかってるよっ!」
 やけになって、タオルを放《ほう》り捨てていた。
「雪貞《ゆきさだ》」
「わかってるよ、そんなこと! あいつが弱いのもわかってるし、兄貴が言うことが正論《せいろん》だって思うよっ! でも……」
 滲《にじ》みそうになる涙を必死に飲みこみ、息を継ぐ。
「でも、……味方に、なりたいんだっ! 俺は、相馬《そうま》の味方になりたい。相馬には、まだ一人で戦う強さがないんだ。それが弱さだってみんな言うけど、俺は……だから俺が、……味方に、」
 たった一人のあいつの味方に、なってやりたい。
 戦う相馬の味方でありたい。
 ――しかしその後はまともな声にならず、拾い上げたタオルに顔を埋めるしかなかった。
 幾度も幾度も深呼吸をし、幾度も幾度も唇を噛《か》んだ。
 鉄の味が滲んだのは、もう逃げないと決めたから。
 相馬から逃げない。
 味方になりたい、と思う自分の気持ちからも逃げない。
 だけど、だけどそれは――
「お、俺は、……松澤《まつざわ》というものがありながら、相馬の味方をしようとしている。こんな俺は、不実な男だろうか……」
「……男には、卑怯者《ひきょうもの》の泥をかぶらないといけない時もある」
「……っ」
 ――ずっと、だ。
 ずっと俺は、泣きたかったのだ。
 ずっとずっと前から。兄貴に相馬の話をした時も、青い果実と話をした時も、相馬が学校に来なかった時も、相馬を早退させてしまった時も、――松澤から返事がこなかった時も、俺はずっと泣きたかった。
 悲しくて仕方がなかった。情けないのはわかっている、それでも悲しかった。本当に悲しかった。
 声を上げずに数滴の涙を搾《しぼ》りだした。兄貴はなにも言わず、ただ頼りない運転技術で車をフラフラと走らせ続けていた。
 ようやく顔を上げることができたのは、数分が経《た》って目元が乾き切ってから。
 鼻をかもうとダッシュボードのティッシュに手を伸ばし、
「……ここは……」
 擦《こす》りすぎて痒《かゆ》くなった目を、思わず瞬《またた》いていた。
 車に乗ってほとんど初めて、外の景色に目をやったのだ。
 そこは我《わ》が家の近所ではなく、
「右折するのが嫌《いや》で左折だけで回っていこうと思ったら、かなり遠回りになったみたいだな」
「……来たことあるぞ……」
 そうだ、相馬《そうま》と寄り道をして帰った日、カラオケの後に自転車で走ったあたりだ。
 それならば、右手の坂の下に見えてきているあの学校らしき建物は、
「兄貴、あれってもしかして桐谷二中《きりやにちゅう》――」
 問う前に、その建物の全貌《ぜんぼう》が見えた。そして俺《おれ》は絶句していた。代わりに兄貴が声を上げてくれた。
「ああ、桐二だけど……うわ、ひどいな。事故でもなけりゃいいけど」
 この大雨と強風のせいで、アクシデントがあったのだろう。取《と》り壊《こわ》し工事が進められている校舎を覆《おお》ってあるはずのシートが外れ、まるでカーテンのように風にはためいていくつかは外れてしまっているのだ。その結果、組まれたままの鉄骨の足場も剥《む》きだしになり、半壊《はんかい》状態の校舎は「無残な」姿を晒《さら》していた。
 重機《じゅうき》に砕かれた天井《てんじょう》。掻《か》きだされた瓦礫《がれき》。暴《あば》かれた内部の構造。
 破壊された壁《かべ》から突きだした断ち切られたパイプは、まるで引きちぎられた血管か神経節のように、奇妙に捻《ね》じくれてぶら下がっていた。
 こんなになっているとは思わなかったのだ。
 だってこの前見た時は、シートに全面が覆われていて、ここまで工事が進んでいるなんて到底――
「相馬……」
 もしも相馬がこれを見ていたら。
 瞬間的《しゅんかんてき》に、脳裏に浮かんだ。
 もしも相馬が今、あのマンションのあの踊り場にいて、ざまみろ、とでも言ってやるつもりで学校を見下ろしていて、そしてこれを、この母校の亡骸《なきがら》を見ていたら。
 そうしたら、あいつは。
「……っ!」
「え? あ、おいっ! 雪貞《ゆきさだ》!?」
 身体《からだ》を突き動かしたのは、ある予感だった。
 衝動《しょうどう》に任せて信号で停《と》まった車を飛びだし、引きとめようと伸ばされた兄貴の手を振り切って、大雨の中、足の痛みも忘れて走りだしていた。
 顔を雨粒に叩《たた》かれても、冷たい風に煽《あお》られても、走らずにはいられなかったのだ。

「はっ、はっ、……っく、はぁっ……うおっ!」
 倒れる寸前まで息を切らし、激《はげ》しく喘《あえ》ぎながら、マンションのエントランスに顔から滑りこんだ。しかし倒れてはいられない、ビチャビチャと水を零《こぼ》しながら空を掴《つか》むように身体を起し、エレベーターへと転がりこむ。
 目指したのは最上階。
 じりじりと歯噛《はが》みして到着を待ち、ドアをこじ開けるようにして飛びだし、そして。
「……相馬《そうま》……っ」
 長い髪を垂らした背中を見つけた。
 本当に、見つけたのだ。
 相馬は外階段の踊り場に張り付いて、びしょ濡《ぬ》れの濡れネズミになっていた。
「相馬!」
 弾《はじ》かれたように振り向いた顔は、紙のように蒼白《そうはく》。
「うそ……田村《たむら》……?」
 相馬は零れるほどに目を見開き、俺《おれ》を呆然《ぼうぜん》と見返す。
「なんで? なんで田村が、ここに来てくれるの?」
 なにも答えず、相馬の傍《かたわ》らに張り付き、豪雨に叩かれる地上を見下ろした。
 そこには、シートが外れて悲惨な傷口を剥《む》きだしにした校舎が――相馬の通えなかった教室が、崩れる寸前の腐りかけた遺骸《いがい》を晒《さら》していた。
「田村……あれ……あれ、見てよ」
「ああ。見てる。……わかってる」
 相馬は泣いていた。雨とは違う水分が、途切《とぎ》れることなく色をなくした頬《ほお》を伝い落ちていた。それでも笑おうと震《ふる》える唇が、薄《うす》く破けて血を滲《にじ》ませていた。
「あれ……ひどいね。あんなふうになっちゃったら、もう二度と、あたしはあそこに戻れないよね」
「そうだな」
「あ、あたし、田村《たむら》に嘘《うそ》ついちゃった。あたし、いっつもここに来てたの。学校に行けなかった間、いつもここに忍びこんで、いつかあそこに戻れるかなって――あは、バカだよね、今度は高校見える場所、探せって言うんだよね。はは、でも、……でもさあ、」
 相馬《そうま》の指が、俺《おれ》のシャツを掴《つか》み締《し》めた。
 その手も指も、ひどく震《ふる》えて強張《こわば》っていた。
「――でも、もう二度と戻れないんだね。二度とあそこには行けないんだね。今、やっと、わかっちゃった……取り返しが、つかない。やり直せない。……だって、……あんなふうに、なってるんだもん……っ」
 癇癪《かんしゃく》を起こしたみたいに、相馬は俺の胸を一発殴った。痛くないわけがなかったが、息を詰めてただその声を聞いた。
「ざまみろ、なんて嘘。ずっと戻りたかったの。ずっとあそこに行きたかった。行きたいのに行けなくて、ただ見てることしかできなくて、そんな自分が、だいっきらいだった!」
 もう一発。二発。
「……あたし……あ、あた、し……っ、あたしなんか、……っ……行きたいよぉ……っ! あそこに、あたし……戻らなきゃいけなんだよぉっ! こんなところで泣いているような弱い奴《やつ》は嫌いなのっ! あたしはあそこに戻りたいのっ!」
 その顔がグシャグシャの泣き顔になるまで見守って、そして、
「……あのな、相馬。よく聞けよ」
 息を思いっきり吸った。
「え……?」

「しょうが、ねえだろ――――がっっっ!」

 渾身《こんしん》の大声に、相馬はヒ、と悲鳴を上げた。
「もう遅い! もう壊《こわ》されちまった! おまえが帰る場所はねえんだよっ! 戻れないんだよっ!」
「……う、……う、……うっ」
 目を真ん丸く見開いて、相馬は言葉をなくしていた。
 そうだ。
 現実は甘くないのだ。
「泣いてたってしょうがねえだろ!? あそこには絶対に戻れないんだってわかっちまったんだろ!? おまえが泣こうが喚《わめ》こうが、二度と、永遠に、あそこには戻れない!」
「ひ、……ひどぉぉぉぉいっ! なんでそんなことわざわざ言うのよ!?」
「それが現実だからだよっ!」
 ――強がらなくていいんだ、と、言ってやれたらどんなにいいだろう。
 そう言って、泣《な》き喚《わめ》く相馬《そうま》の涙を拭《ぬぐ》ってやれたらどんなにいいか。
 今は休んで、いつかまたあそこに帰ろうね、そんな日がきっと来るから、強がらなくてももういいからね――そんなふうに言ってやれたら、どんなに、どんなにいいか。
 どれだけ、その言葉を言ってやりたかったことか。
 だけど、相馬が戻れる場所はもうないのだ。戻りたかった学校は壊《こわ》されてしまった。いつかなんて永遠に来ない。休んでいたらそのまま終わる。
 相馬は厳《きび》しいこの現実の世界で、戦うしかないのだ。
 それも今、猶予《ゆうよ》なしに、戦い始めるほかにないのだ。
 だって相馬は、まだ諦《あきら》めてはいないから。諦め切れずに、ここに立っているから。泣いて叫んでいるから。
 弱くて弱くて危なっかしい相馬の手を、力いっぱい握《にぎ》り締《し》めた。二度と解《ほど》けないように、本当に力いっぱい。力の限り。想《おも》いの限り。
「た、田村《たむら》……」
 この世界は本当に厳しくて、打ちのめされるようなことばかり起きる。戦ったって、勝てないかもしれない。
 それでも、俺は、おまえの味方でいる。
 おまえが戦い、勝ち抜き、生きていけるよう、俺はこの手を離《はな》さない。
 だから、
「……言ってやれ! いつもみたいに!」
 ツンドラ色のクールな目で。ツン、と澄《す》ました生意気なツラで。
 意地でも強がって言ってやれ。
 戦い抜くと、言ってやれ。
 おまえなんかいらないと、こっちから捨てて踏みつけてやると、声を限りに、全身全霊《ぜんしんぜんれい》の強がりでもって、これがあたしの戦い方だと、
「言ってやれーっ!」

 相馬はやがて、うん、と頷《うなず》いた。
 涙を拭《ふ》いて、学校を見下ろした。
 陰険でいいんだ、性悪でいいんだ、だってあたしは……美人だから!
 壊れて死ぬのはあんたの方!
 綺麗《きれい》なあたしは、傷つかない! せえの!

「ざま―――――みろ――――――!」

「管理人さん、あそこです」
「よく言った、よく言ったぞ相馬《そうま》ーっ! うわあ!?」
 気がつけば、怪訝《けげん》な顔でこっちを指差す住人と真正面から対峙《たいじ》していた。そしてエレベーターで上がってきたのは、
「なんだぁ? 高校生かぁ? ウチの敷地《しきち》でなに悪さしてた! 今すぐ警察《けいさつ》に突きだして……いや、管理人室にまずは来い、そして、そしてなあ……ぐへへ!」
 鬼瓦《おにがわら》だった。いや、鬼瓦によく似た管理人だった。震《ふる》え上がったのは寒さのせいではなかった。こいつは絶対に食人している。顔を見ればわかるのだ。
「に、逃げろっ!」
「どこから!?」
 エレベーターを鬼瓦に塞《ふさ》がれ、残された退路はただひとつ。とっておきの、最悪な奴《やつ》だ。
「……階段だ!」
 地上十二階。雨と風の中に吹《ふ》きさらし。頼りない手すりの向こうには硬い地面が待っている、このマンションの外壁《がいへき》に辛うじて張り付いた螺旋《らせん》階段のことだ。
「こわいよぉ!」
「戦え、現実と!」
 きつく相馬の片手を握り、暴風雨《ぼうふうう》できしむ外階段を一気に駆け下り始める。濡《ぬ》れた鉄板の上で一度も転ばなかったのは奇跡に近い。
 一階についた頃《ころ》には俺《おれ》も相馬もほとんど半ベソ、エントランスで待ち構える鬼瓦から逃げるために植木を乗り越え、フェンスを乗り越え、嵐《あらし》の中を走り抜ける。
 おまけに雷まで鳴りだして、
「ひええっ!」
 走りながら相馬は何度も腰を抜かしかけた。
 ――本当に、この世界は相馬に厳《きび》しいのだ。
 ひどい雨も、冷たい風も、分厚い雲も、隠れた太陽も、マンションの住人も、管理人も、俺の兄貴も、意地悪コンビも、クラスの女子も、中学の連中も……とにかく相馬がぶつかるものは、すべてが相馬の敵だった。相馬の行く道の前に立ち塞がり、跳ね返し、足を引っ張り、冷笑し、おりとあらゆる手段でもって、相馬を打ち負かそうとする。
「転ぶなよ!」
「うええーん!」
 味方は、世界にたった一人。
 この俺だけしかいないのだった。しかも、かと言って、
「泣くなっ! 鬱陶《うっとう》しい」
「……うわああああん!」
 俺《おれ》だってそんなに甘いわけではないぞ。

     ***

 こういうパターンにおいてよく見られる現象として、『泣きながら大騒《おおさわ》ぎして走っていた俺達。服も髪もびしょ濡《ぬ》れで最悪だぜ。だけどなにやらめちゃくちゃに突っ走っているうちに、段々楽しくなってきちまった。気がつけば二人|揃《そろ》って大笑いしていたのさ』……というものがある。
 俺は好きだ、そういうのが。終わりが明るいと救いがあるから。
 しかし相馬《そうま》は、
「うっ……うっ、うっ、うっ……うええ……」
「いい加減、もう泣《な》き止《や》めって」
「ううう……」
 俺の趣味《しゅみ》に付き合ってくれる気などさらさらないらしい。
 大雨を避けてようやく逃げこんだのは、人気《ひとけ》のないバス停だった。横殴りの雨までは防ぎ切れないが、かろうじて屋根とベンチがあるだけでも、吹きさらしよりはだいぶましだ。
 時間は夕方五時を回った頃《ころ》。
 ますますあたりは暗くなって、早くも夜の気配《けはい》が暗雲の向こうに迫り来ていた。
 ベンチに並んで腰掛けた相馬は、息を乱したまま泣きじゃくり続けている。透かし編《あ》みのカーディガンに、くるぶし丸出しのジーンズ姿では寒いのだろう。濡れた髪を張り付かせた肩はカタカタと震《ふる》え、喉《のど》もだいぶ嗄《しわが》れているようだ。さすがに少々かわいそうになって、慰《なぐさ》めの言葉をかけてみた。
「相馬よ……よほど鬼瓦《おにがわら》が恐ろしかったんだな。わかるぜ、俺もあのタイプは苦手だ……。これに懲《こ》りたら二度とあそこには近づくなよ。次は確実《かくじつ》に仕留められる……」
「そ、それで泣いてるんじゃ、ないもん」
「じゃあなんだ……寒いから? 雨に濡れたから? 走り疲れた? ……便所?」
「違うってば」
 くわっ、と相馬は泣き濡れた顔を、勢いよくこちらに向けてみせた。腫《は》れた目蓋《まぶた》を擦《こす》りつつ、嗄れた声を張り上げる。
「あ、あたしが泣いてるのは、嬉《うれ》し泣きなの。……田村《たむら》が来てくれたのが、嬉しいの」
 お――の形にしばし口を開いたまま、しばし絶句。
「俺、が来てくれた、のが?」
 搾《しぼ》りだすようにして尋《たず》ねた言葉に、コクン、と相馬《そうま》は頷《うなず》いて見せた。
「……俺《おれ》が来たのが、そんなに嬉《うれ》しいのか?」
 うそだ、まさか、と言ってしまうのは簡単《かんたん》だった。だけど、
「ありがとう」
 相馬はかすかに笑ったのだ。
 そして、絡めたままにしていた指に強く力を込め、きつく俺の手を握る。
 瞬間的《しゅんかんてき》に爆発《ばくはつ》しそうになった脳に、蘇《よみがえ》る記憶《きおく》があった。それは青い果実の姿をしていて、俺の真剣な顔を指差し、『ぎゃはは』と笑った。
「……急にあたしが馴《な》れ馴《な》れしくしてきて、田村《たむら》びっくりしてたでしょ」
「……お、俺のびっくりに気がついていたのか」
「うん。あれさ、……ごめんね。お弁当とか、寄り道とか、あたし加減がわからなくて。あの時、困らせちゃってたよね」
 バカ言え、今が一番困っているわ! とも言えず、モジモジと茫然自失《ぼうぜんじしつ》状態を続けさせていただく。
「仲良くなりたかったの。それだけなの。困らせるつもりじゃなかったの」
「……な、」
 落ち着け俺。ひっくり返った声はなかったことにして、咳払《せきばら》い。
「……なんで、俺なんだ? 困ってたっていうよりも、俺はずっとそれが不思議《ふしぎ》だったんだぞ」
「田村はね、あたしがずっと欲しかった言葉を言ってくれたの。覚えてるかな、田村の家の前でケンカみたいになって、田村あたしに言ったよね? 『俺はおまえの正体を知っている』って。どんなにかっこつけても無駄《むだ》で、田村だけは素のあたしを知っている、って」
「……確《たし》かにそれっぽいことは言ったと思うが……それがなんでそんなに嬉しいんだ」
 えへ、と相馬は首を傾け、子供のように笑って見せた。
「ぜーんぶ、取《と》り繕《つくろ》ってたから。……それまですごく、苦しかった。不登校だったことバレたくない、誰《だれ》にも二度といじめられたくない、あたしはあの頃《ころ》そればっかりで、とにかく他人から離《はな》れようと必死だった。それは成功してたよ。でも――」
 笑顔《えがお》の頬《ほお》を一粒だけ、涙がコロリと伝わり落ちる。
「でも、すっごく、寂しかった。毎日毎日、一秒ごとに、息をするごとに寂しかった」
「……相馬……」
「だからね、本当に嬉しかったんだよ。田村は気が付いてくれるんだ、って。本当のあたしを、見つけてくれるんだって。だから……田村だけでいいから、仲良くしてくれないかなあ、って思ってた。それに、今ならわかる。そう思ったのは、間違いじゃなかった」
 つないだ手を持ち上げて、相馬は嬉しそうに大きく揺すった。まるで子供がやるみたいにして。
「だって、田村《たむら》は来てくれたもん! ……一緒《いっしょ》に大声出してくれて、一緒に逃げてくれて、あたしの味方になってくれた! あたし、田村が味方でいてくれるなら、まだ頑張れる。戦える。……さっき初めて、そう思えたんだ」
「……あ……」
 声をなくしたのは、呆然《ぼうぜん》としたからではなかった。
 言葉の代わりに喉《のど》にせりあがってきたものは、ひどく熱《あつ》くて、優《やさ》しかったのだ。
 伝わっていた。
 心の中でずっと叫んでいた声は、ちゃんと相馬《そうま》に伝わっていた。俺《おれ》はここにいるぞ、と。俺はおまえの味方だ、と。叫んだ声は、無駄《むだ》ではなかった。
 ああそうだ、そしてやっぱり高浦《たかうら》は間違っていたのだ。
「……兄貴目当てじゃ、なかったんだな」
 もちろん、相馬がそんな女ではないことは先刻承知済みだったが、こうして本人の言葉で明らかにされるとより明確《めいかく》に、
「……なにそれ」
 明確に……なると思っただけなのだが。
「え? なにそれ、って言われても……な、なにが?」
「……田村、あたしのこと、そんな奴《やつ》だと思ったの? 今までのこと全部、田村先生目当てにやってることだって、そう思ってたわけ?」
「はっ!? ば、ばか! 違うって! そんなのもちろんわかってるよ、ただちょっと、なんていうか、あー、やっぱりそうなんだ、よかったー、っていうか」
「あたしそんな奴じゃないもんっ! なんでこんな大事なことだけわかってくれないのよっ!?」
「WOW!」
 つないだままの二人分の拳《こぶし》が、俺の頬《ほお》にヒットしていた。そして襟首《えりくび》を掴《つか》まれ、
「くっ、くるし……!?」
 下唇を噛《か》み締《し》めて、怒りに震《ふる》える相馬の前へ引き据えられる。
「あたしはそんな奴じゃない! 田村先生に対する気持ちは、あこがれだったの! 今好きなのは……好きなのはいつだって、ひとりだけ……!」
 ――一人だけ、かぁ。
 そうだよなあ、普通。
 と、一瞬《いっしゅん》、思考世界にトリップした隙《すき》を突かれた。
「ぐっ!?」
 脳裏によぎったのは、体育の柔道で投げられたときのこと。柔道|経験者《けいけんしゃ》に、初めて着た柔道着の襟をグッと引っつかまれ、あれよあれよと言う間に放《ほう》り投げられたのだ。
 襟首《えりくび》を引き寄せられた感触に、また投げられるんだわ、また痛い思いをするんだわ、とトラウマが発動したのと同時。

「……」

 声も、出なかった。
 いや、出せなかった。
 俺《おれ》は襟首を掴《つか》まれて、渾身《こんしん》の力で引き寄せられて、そして――ギュっと目を閉じた相馬《そうま》の唇に、唇をぶち当てられていたのだ。いや、ちょっと誇張があった。むしろ前歯と前歯の方が正しい。
 しかしそれは凄《すさ》まじい衝撃《しょうげき》。
 凄まじい、ショック。
 ぶつかりあったその瞬間《しゅんかん》、ビリビリビリ、と脊髄《せきずい》が引き裂けた気がした。爆発的《ばくはつてき》な電気が脳天から脊髄を通って、尾てい骨に抜けていく。
 時が止まった。
 そして、理解した。
 これは、これはその、伝説では実在するらしいと聞いたことはあるものの、今まで一度も捕
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らえたことのない、あの――キ、キ、キ……と猿化したところに、バスが滑りこんできた。当たり前だ、バス停なのだから。
 相馬《そうま》は俺《おれ》を放《ほう》りだし、いつの間にやら走りだしていた。ものすごい勢いでバスに飛び乗り、「おじさん早く出して! 追っ手から逃げて!」「いや、これはバスだからねえ」などとショートコントを繰《く》り広げ、
「あ……あぁ!? 相馬、お、おま……おま、おまえ! ふふふ、ふ、ふふ!」
 笑っているわけではなかったのだ。
 婦女子、と言いたかったのだ。
 ――だってあれは、キス、だったのではないでしょうか。それも、ファーストキッス、という奴《やつ》では。

「婦女子が、なんということをーっ!」

 その現実を理解した時には、窓越しにも真《ま》っ赤《か》な顔をした相馬を乗せて、バスは走り去っていた。
 置いてけぼりは二回目だ。
 一回目よりも、ずっと死にそう。

     ***

 バス停に呆然《ぼうぜん》と座りこんでいた間に、激《はげ》しかった雨も上がった。時間はすっかり夕食時で、そこここの家からおかずの匂《にお》いが漂ってきている。
 瀕死《ひんし》の状態でどこをどう步いたやら、とにかく家には帰り着いた。
 しかし、これだけ時間を潰《つぶ》してもなお、顔は凄《すさ》まじく火照《ほて》っていたし、多分《たぶん》口を開けばろれつもあやしい。
 なんというかもう――限界、という感じだった。
 まだ家に入ることはできない。特に、兄貴とは顔を合わせたくない。
 そうだ、と、すがるようにポストを漁《あさ》った。さぞかし怪しい少年に見えるだろうが、通報したければすればいい。俺はそれどころではないのだ。開き直っていくつものダイレクトメールやら請求書《せいきゅうしょ》やらをより分け、とにかくもっと時間を稼《かせ》ごうと――
「うわあああああああ!」
 叫んでいた。
 あったのだ、それが。
 松澤《まつざわ》小巻《こまき》、と書かれた一枚のはがきが。今日《きょう》までどれだけ待っても来なかったそれが、今、届いていたのだ。
 震《ふる》える手でしばし差出人の名前を見つめ、意を決して裏返す。
 もう一度、叫びだしたかった。
 そこにはただ一言だけが記されていたのだ。

 相馬《そうま》さんって、誰《だれ》?

「な、ななな、な……っ」
 相馬は……相馬は……俺《おれ》の、ファーストキッスの、相手……というか。
「スパイ、だ……スパイがいるぞ!」
 ゾクリと震えて背後を見た。それから右、左。いないとなると――上か!?
 ヒィ、と喉《のど》が鳴った。見上げた天に、それは浮いていた。
 松澤《まつざわ》の故郷の星。
 黄金色《こがねいろ》に輝く、真ん丸い月。
 そいつが天からまっすぐに、俺を照らしだしていた。
[#改ページ]
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 三年B組クラス委員長、高浦《たかうら》真一《しんいち》(一五)がその気配《けはい》を感じたのは、梅雨《つゆ》もそろそろ明けようかという初夏のひと時のことだった。
「……桃色《ももいろ》……」
 思わず呟《つぶや》き、首をひねる。眠り地蔵と評される所以《ゆえん》でもある小さな目は、教室の隅の一組の男女を熱心《ねっしん》に追っている。
「なにか言ったか?」
 傍《かたわ》らから声をかけてきたのは、幼馴染《おさななじみ》で親友でもある田村《たむら》だ。昼休みだというのに歴史の副読本を広げているあたり、根深い地味さを感じるが。
「……いや、なんでもない」
 あっそ、と友はあっさり一人の世界に帰っていく。そして視線《しせん》は再び教室の隅へ。それから、ゆっくりと見回すように。
 高浦は感じていた。
 とある国の、とある県の、とある市にあるとある中学。その教室のただ中で、なにか目に見えないものが、自分を置き去りに変わりゆこうとしている――

     ***

 邸宅の広大な敷地《しきち》の北側。
 初夏の湿気を含んで青く臭《にお》う木立《こだち》の奥に、その小さな離《はな》れは鎮座《ちんざ》していた。かつては住み込みの使用人達の居室として使われていたらしい。戦後、大規模な改築工事の際に取《と》り壊《こわ》される予定だったのだが、大工たちの休憩《きゅうけい》場所として使用されるうちに取り壊すのを忘れられ、結局うやむやのうちに捨て置かれたままになっている。外見は腐りかけた木造の小屋でしかなく、基礎《きそ》はどうなっているのやら、全体的に傾きかけているというどうしようもない代物《しろもの》だ。
 だがしかし。
「いててててっ!」
 匍匐前進《ほふくぜんしん》の要領で鉄条網の下を潜《くぐ》り抜けつつ、高浦は背中を刺す痛みに悲鳴を上げた。現在、このボロ小屋に入るためには、こんなえらい目に遭わねばならないのだ。
 三年前、ここに一人の偏屈な人物が住み着いた。
 その人物が手ずから離れの周囲に杭を打ち、鉄条網を張り巡らせたのが一年前のこと。そんな必要がどこにあるかは住人以外にはわからない。大胆に傾《かし》ぎながら地面に深々と突き刺さった杭も、小さな出入口につけられた重厚すぎる南京錠《なんきんじょう》も、住人の歪《いびつ》な縄張《なわば》り意識《いしき》を表しているようで薄気味《うすきみ》が悪いことこの上ない。
 それでもなんとか凶悪な鉄条網の囲いを抜けて、内側へ入りこむ。だが離れに近づくにつれ、なにやら甘ったるい臭いが漂ってくることに気が付いた。香水や菓子の甘さではない。あえてなにかに例えるならば――
「くさっ! ……でも懐《なつ》かしい……」
 おばあちゃんの鏡台《きょうだい》の引出しをぐつぐつ煮詰めてエキスにした、ような。
 顔をしかめて鼻と口を手で覆《おお》い、異臭をこらえて扉の前までたどり着く。鍵《かぎ》がかかっているようだが、真鍮《しんちゅう》のドアノブを掴《つか》んでみればやはりボロ家だ、ちょっと力を入れただけで、簡単《かんたん》に鍵は開いてしまった。
「……あいちゃったよ。いいのかな……」
 おっかなびっくり、そっとドアを開いてみた。そして中を覗《のぞ》こうとしたその瞬間《しゅんかん》、
「っぶわぁっ!? ゲホゴホゴホゴホゴホッ! ゲホォッ!」
 バックドラフトだ。
 部屋の内部から一気に噴《ふ》きでた濃密《のうみつ》な白煙の直撃《ちょくげき》を受け、目と鼻と喉《のど》をやられた。
「バ、バルサン!?」
 ……ではないらしい。臭《にお》いが違う。さっきからムンムンと漂っていたねっとりと甘い異臭の元は、どうやらこの煙のようだった。窒息しそうな濃度の臭気に早くもUターンして帰りたくなるが、そうはいかない、とかぶりを振る。
 意を決して息を止め、ドアを思いっきり開閉し、強制的に換気を試みた。蝶番《ちょうつがい》をギィギィと不吉に鳴らしながら幾度も幾度も開け閉めを繰《く》り返し、なんとか視界がクリアになった。
 ようやく行けるか、と気合を入れ直し、踏み込むが。
「……」
 迫り来る暗黒に声を失った。前にここを訪れた時には、こんなにすごくはなかったぞ!?
 鉄条網に異臭、白煙。すでに十分奇妙なモノに出会ったつもりになっていたが、あんなのはまだまだ序の口だったのだ。
 午後四時を回っているとはいえ、外はまだ十分に明るい。それなのに、内部は蝋燭《ろうそく》の炎だけが揺れる異様な暗闇《くらやみ》に塗りこめられている。その理由はすぐに知れた。三方の壁面《へきめん》にある窓が、すべて真っ黒に塗られた板によって偏執的《へんしゅうてき》に塞《ふさ》がれている。板を打ち付けているのは……やめてくれ、滅多打《めったう》ちにされたせいでねじくれまくった五寸釘だ。
 天井《てんじょう》からは黒い布が幾重にも垂れ下がり、その間に吊《つ》られた銀の香炉からは、いまだに異臭を放つ白煙が上がり続けている。年代物のサイドボードには朽《く》ちかけた頭蓋骨《ずがいこつ》のオブジェ。その隣《となり》には得体《えたい》の知れない、濁《にご》った水が揺れる水槽《すいそう》。そして一番奥に、分厚い書物がぎっしりと詰められた重厚な本棚が設《しつら》えられている。
 思わず近づき、蝋燭の炎が怪しく照らす古びた背表紙を目でたどれば……ユイスマンス、ボルヘス、バタイユ、澁澤《しぶさわ》龍彦《たつひこ》に夢野《ゆめの》久作《きゅうさく》……力バーをわざわざ裏返しにかけてあるのはなんだ?
「……大槻《おおつき》ケンヂに、バトル.ロワイアル……」
(あちゃー!)
 心の中だけでひそやかに叫び、思わず確《たし》かめてしまったのをそっと棚へ戻した。なぜだろう、最も見てはいけない傷跡を覗《のぞ》きこんだような気持ちになって、慌てて後ずさりをしたその時。
「うわぁ!」
 今度こそ悲鳴を上げていた。足元がヌルリと気味悪くぬめり、滑ってバランスを崩したのだ。一体なにを踏んだのかと蝋燭《ろうそく》に照らされる板張りの床を見れば、
「……ひぃえぇぇぇ……」
 いよいよ本気で帰りたくなる。なにかヌラヌラとしたオイルのような液体で、床一面に、円と六角形を組み合わせたような複雑な図形が描かれていたのだ。
 高浦《たかうら》は唸《うな》った。なんということになってしまっていたのだろう。確かにここしばらく、食事時にも姿を見かけることはなかったけれど、ここまでイッてしまっていたとは――
「……死ぬよ」
「ぎゃー!」
 突如かけられた声に、半ば跳び上がりながら振り返った。その顔面に、
「聖なる灰だ!」
「うっぷ!」
 ぶちまけられたのは――聖なる灰、なのだろう。刺激臭《しげきしゅう》を発する粉末を目にも鼻にも思い切り浴びて、とうとう顔を覆《おお》ってその場にしゃがみこんでしまった。
「……だらしないことね。命を救ってやったというのに、礼の言葉一つ出ないとは」
 くっくっくっくっく、と暗い笑いが暗黒に響《ひび》く。奇妙に抑揚を抑えた声は、しかし幼い少女のそれだ。
「い、命?」
「そうよ。今踏み荒らされたのは、侵入者の命を奪う結界だもの。知らぬとはいえ、大胆なこと」
 涙を拭《ぬぐ》って目を開き、戸口に立つ怪人物の姿を確かめた。
 足首まである真っ黒なケープ。すっぽりとかぶって表情を隠すフード。手にはなにに使っていたやら、『聖なる灰』入りの麻袋をむんずと掴《つか》んでいる。
 その小柄な人物こそがこの離《はな》れにすむ住人であり――
「一体どんな御用かしら。……お兄ちゃん」
「い、伊欧《いお》……おまえに頼みがあるんだ」
 ――高浦|真一《しんいち》の腹違いの妹だった。
「おまえの魔力《まりょく》が、今こそ必要になったんだよ。俺《おれ》のクラスに様子《ようす》のおかしな奴《やつ》らがいて、ちょっと問題になりそうなんだ」
 真一の言葉に興味《きょうみ》を引かれたのか、彼の妹はフードを脱いだ。その拍子、真っ黒な絹糸のような長い髪が柔らかにケープの胸にこぼれる。
「……ふぅん? そいつらと私の魔力《まりょく》にどんな関係があるかわからないけど……私の魔力を認めたことだけは、褒《ほ》めてやってもいい」
 白すぎる頬《ほお》はまだ子供のようで――いや、実際に子供なのだ。彼女は花の十四歳、ただし、学校に行っているかどうかは定かではない。籍《せき》は私立の女子中にあるはずだが。
 血色の透ける唇の端が、兄を見つめて不吉に吊《つ》り上がる。冷たい玻璃《はり》から刻みだしたような、あやうい線《せん》をもつ美貌《びぼう》だった。ただし、漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》は熱《ねつ》に浮かされた子供のようにギラギラと底知れぬ輝《かがや》きを灯《とも》し、正直|綺麗《きれい》を通り越して、危ない域までいっている。
 彼女の名前は玉井《たまい》伊欧《いお》。中学二年。現在|高浦家《たかうらけ》に居候中《いそうろうちゅう》。
 フードつきのケープをまとって暗闇《くらやみ》の棲家《すみか》に暮らす彼女は、現代に生きる魔女、だった。

 そもそも高浦家といえば、このあたりでは知らぬ者のない資産家の一族である。祖父は総合病院の理事長、父は現役外科医にして院長、そして一人息子が高浦|真一《しんいち》――今はうだつのあがらない、三年一組のクラス委員長だ。
 そんな高浦家に三年前、ある大事件が起きた。名家の娘である母が、不倫の果てに家を出たのだ。そこに乗り込んできたのが、父の一番古株の愛人.玉井|麗子《れいこ》だった。
 麗子は他《ほか》の愛人と違い、父親との間に子供を作っていた。ヨーロッパ旅行中、イタリアに滞在していた時に大当たりした子供ということで、伊欧と名づけられた女の子である。本妻の留守に伊欧を伴って上がりこみ、離婚《りこん》.再婚.将来|安泰《あんたい》の三連コンボを狙《ねら》って居座り、別居の祖母の嫌《いや》がらせにも負けず、今では邸の模様替えさえ自由にしている。
 面倒《めんどう》を嫌ってか、自宅にすっかり寄り付かなくなった父にも無関心なあたり、純粋に財産だけが狙いなのだろう。御曹司《おんぞうし》を追いだすつもりもないらしく、気が向いた時には後妻気取りで、食事の世話さえ見てくれる。正直、一切家事とは無縁《むえん》だったお姫様育ちの実の母より、よほど母親らしくはある。
 だが伊欧は、張り切っている母親から距離《きょり》を取った。乗り込んできたその日から口もきかず、笑顔《えがお》も見せず、誰《だれ》にも心を開かないまま、やがて寄り付くもののいない離《はな》れに一人で隠れ住んだのだ。最初は本が好きな根暗なだけの子供だった。だが本好きを悪くこじらせ、思春期特有の潔癖《けっぺき》さと相まって、オカルテイズムや神秘哲学――青すぎる衒学趣味《げんがくしゅみ》に痛々しくのめりこんでしまうまで、時間は長くはかからなかった。
「人間は結局、己《おのれ》の欲望に操《あやつ》られている愚かなマリオネット……」
 伊欧は唇を頑《かたく》なに歪《ゆが》め、呟《つぶや》いた。
「金が欲しいだの、有名になりたいだの、そういう下劣極まりない願望《がんぼう》は、すべて欲望……いえ、性欲から生まれでる。戦争も犯罪も不景気もリストラも、すべては性欲が人間を飲みこんで、世界にひねりだした排泄物《はいせつぶつ》」
 誰も信じない暗い目をして、痩《や》せた背中を苦しげに丸め、
「それがなければ、人間の英知はもっと高みに到達できるというのに……下劣な欲望は思考を捻《ね》じ曲げる、ごまかす、汚しっ、踏みつけっ、辱《はずかし》めるっ! だから欲望なんてものは……性欲なんてものは……っ!」
 うぉぉぉぉっ、と反り返った。

「ふ.け.つ.よ――――――――――っ!」

「わ、わかったから……ええと……座れば?」
 はあ、はあ、と興奮《こうふん》して鼻息を荒くする伊欧《いお》に、高浦《たかうら》はそっと椅子《いす》を勧めた。伊欧の離《はな》れのカーテンの奥には、小さなテーブルとスツールを備えたなごやかなスペースもあったのだ――ただしテーブルの上には、髑髏《どくろ》の燭台《しょくだい》に立てられた血色の蝋燭《ろうそく》がたらたらと眼窩《がんか》に蝋を垂らしているが。
「……いけない。つい興奮してしまったわ。大声を出すとここは崩壊《ほうかい》する危険があるのに」
「住むなよそんなとこ」
「で、なんですって? その淫乱女《いんらんおんな》とケダモノ男が、破廉恥《はれんち》にもお兄ちゃんの教室で猥褻《わいせつ》な行為に及んだと? その二人に血の鉄槌《てっつい》を下せと言うのね? フン、そういうことなら呪《のろ》いをかけるまでもない、いっそこの手で――」
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 誰《だれ》もそこまで言ってはいない。高浦《たかうら》は慌てて妹の危険な言葉を遮り、
「いやいやいや、そうじゃなくて! そいつらが今後、猥褻《わいせつ》な行為に及ぶ可能性があるかどうかを占ってくれって言ってるんだって。……どうも怪しいんだよ、気がつけば二人だけで会話をしているし、休み時間には二人|揃《そろ》って教室にいない。授業の時間に遅刻するのも一緒《いっしょ》でさ」
 ケッ、と伊欧《いお》は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、グロい話でも聞いたかのように表情を露骨《ろこつ》に歪《ゆが》ませた。
「薄気味《うすきみ》悪いこと」
「そうだろ? ほら、俺《おれ》はクラス委員長という立場上、そういう汚《けが》らわしい人間関係が教室内にはびこってしまうのを阻止しなければならないと思うんだ。その……おまえも言っていたとおり、欲望なんてものは不潔《ふけつ》でいらんもんだから」
 ……などと言ったところで、無論《むろん》本心のわけがない。ただ単に、生来《せいらい》のヤジウマ根性が好奇心をくすぐりまくり、奴《やつ》らができてるかどうなのかを知りたいだけなのだ。だがそんなことを言えば高浦自身が『欲望に群がる蝿《はえ》』と呼ばれて伊欧に仕留められるだろう。だから、
「……お兄ちゃん。素晴《すば》らしいわ」
 だましてみた。だまされる方もだまされる方だが、伊欧は瞳《ひとみ》をキラキラさせ、高浦の両手をガバ、と取る。
「あの因業《いんごう》ババアに黙《だま》って財産を貪《むさぼ》られてる愚図《ぐず》だと思っていたけど、やっとお兄ちゃんも人間の卑俗さが理解できたのね。いいでしょう! 我《わ》が法をもってきゃつらの正体を炙《あぶ》りだしてくれる!」
「伊欧! なんて頼もしいんだ!」
 グッとその手を握り返し、その気になった伊欧にさらに詳しい状況を説明すること数分。
「――心得た。ならば……」
 伊欧はチェストの引き出しから正体の知れない乾いた草を掴《つか》みだし、唐突に床にばら撒《ま》いた。なにが始まるのかと引きまくりの高浦を置き去りに、さらにその上に謎《なぞ》のオイルを垂らし、銀の香炉に新たな火を入れ、うにゃうにゃとなにかを唱えだす。
「あ、あの……伊欧?」
「術の最中に話しかけないで。死ぬわよ」
「……ちょっとした疑問なんだけど……そういうののやり方って、どこ見ればわかるんだ? 本? ネット?」
「考えたのよ自分で」
「……創作かあ……」
「カーッ!」
「わあっ!」
 手にした杖《つえ》で草をかき回し、伊欧は気合|一閃《いっせん》、天井《てんじょう》のフックに吊《つ》られた香炉を力いっぱいブン殴った。当然、
「あちちちちっ! って、危ない危ない!」
 火のついた灰が飛び散って、高浦《たかうら》は熱《あつ》さに悶絶《もんぜつ》しつつも板の床に落ちた火種を踏み消そうと、その場で不器用なステップを踏んだ。
「……つーったった、つーったった、たったかたったー……よしっ、見えたり!」
「なにが!?」
 伊欧《いお》は高浦の決死のステップのリズムを真剣に計りつつ、重々しく告げる。
「……その二人、まだ付き合ってはいないわ。男の方が告白したの。女は返事を待たせてるけど、かなりその気になっていて、男もそれがわかるから事あるごとに押しまくってる」
「な、なるほど……深い」
 高浦は満足げに頷《うなず》いて、伊欧の秘術に拍手を送った。

 翌日から高浦は、伊欧の占いの結果をベースに置きつつ、さりげなく目撃《もくげき》情報や噂話《うわさばなし》を追跡|調査《ちょうさ》しまくった。その結果、伊欧の宣託《せんたく》は正しかったという裏づけがとれた。特に驚《おどろ》きはしない。正しいだろうと予測はしていた。
 もちろん、あんな『占い』をまさか信じる奴《やつ》はいない。大切なのは、伊欧が情報を聞き、推理する、という点にあるのだ。
 伊欧は認知もされた子供だったから、兄妹の付き合いは実は結構長かった。同居する前にも年に数度は会っていたし、互いの難《むずか》しい境遇を、愚痴《ぐち》まじりに話しあうことさえあった。
 高浦はそういった交流において、経験的《けいけんてき》に知っていた。伊欧は、異様に人間の心の動きに敏《さと》い。愛人の娘という微妙な立場に生まれ、愛憎によって左右される暮らしの中で育ったせいなのだろう、ちょっとした他人の表情や言葉尻《ことばじり》を捕らえては、事の本質を素早《すばや》く見抜くことができたのだ。
 つまり妖《あや》しい自己流の占いとは形だけのことで、実は伊欧自身の敏感すぎる感受性が人の感情を読み取って、状況を推理推察しているに過ぎなかった。
 そしてそれからも高浦は、怪しい二人を見つけるたびに、鉄条網の隠れ家へ伊欧を訪ねた。伊欧に占わせてはその結果の裏づけをとる、ということを何度となく繰《く》り返したのだ。
「なあ伊欧、こいつらのことをどう思う? こいつらはさあ……」「よくわかった! かじって、お兄ちゃん!」「は!? この正体不明の枯れ草を!? お、押しこむな、いっそ自分で……ぼえぇぇっ! 辛いっ! ぺっぺっぺっ」「辛いか、なるほど……その二人、できている! ちなみに、さっき言っていたなんたら言う男はその女に横恋慕《よこれんぼ》の可能性大! ペッ!」「そうかぁ、あいつらが……メモメモ。で、今度はこんな奴らなんだけど……」「よし、その汚《けが》らわしき正体を白日の下に晒《さら》してくれる! 行けっ、ポテト(高浦家のペットのマメシバ)! 好きなカードをそこから選べっ!」「ワォーン!」「やはりそうか、その二人は一度はつがったものの、とっくの昔に別れているっ! ああっ、気色悪い!」「汚らわしい!」「愚かさの極み!」「無知蒙昧《むちもうまい》!」「色ボケ色情狂!」「焼き払えぇぇぇいっ!」……。

 ――さすがにどうだろう、と思い始めたのは、七月に入って一週間が過ぎた頃《ころ》だった。
「うーん……ここまでキテると、ちょっと心配になってくるような……」
 母屋《おもや》である洋館の二階。中学生が生活するには贅沢《ぜいたく》すぎるホテルライクな私室で、ベッドに寝転びながら思わずため息を漏らしてしまう。
 中学生が恋愛を体験《たいけん》することは、ごく当たり前のことのはずだ。うまくいくにしてもいかないにしても、とかくこの年頃の男女は、なにがどうしたって好きだの嫌いだの騒《さわ》ぐものなのだ。男子となれば特にわかりやすく、下半身が黙《だま》っちゃくれない。それが普通のことだろう。
 だが伊欧《いお》は、享楽的な母親に放《ほう》って置かれるまま自分の世界に没頭し、そんな「当たり前の」騒ぎを睥睨《へいげい》し、軽蔑《けいべつ》し切って暗闇《くらやみ》の中で一人|呪詛《じゅそ》を唱えている。あまりにも普通とかけ離《はな》れすぎている。
 もちろん、理解できる気はするのだ。愛人の子として生まれ、季節ごとに本妻への挨拶《あいさつ》に連れ步かれ、母親は財産目当てで本宅に乗り込み……そんなふうに育ってきて、歪《ゆが》むなというほうが難《むずか》しいのかもしれない。性的なことに対する異様なまでの嫌悪《けんお》も、そんな過酷な生育|環境《かんきょう》が原因になっているはずだ。勝手に高浦家《たかうらけ》の財産でセレブごっこをしている母親を軽蔑し、逃げ回っている父親を憎悪し、自分の出生に絶望し、高浦家にこんな形で住むしかない恥辱に精神を病み――とにかく伊欧は、この世界のすべてを呪《のろ》い尽くしている。あの魔女《まじょ》ごっこは、伊欧が自分を守るための『鎧《よろい》』に過ぎないのかもしれない。
「あいつ……あんなんで将来どうするんだろう……?」
 目を閉じれば、思い出してしまう。
 あれは確《たし》か、伊欧が小学校に上がる前の新年だ。例年どおりに高浦家を訪れたものの、いつにもまして暗い様子《ようす》の伊欧に、「なにかあったん?」と話しかけた。すると伊欧は、しょんぼりとこう答えたのだ。
『……ママ、大人《おとな》の話してくるから、って言ったんだけど、大人の話っていうのは、ママと伊欧をこれからも見捨てないでね、ってパパにお願《ねが》いすることなんだよ。お願いしなくちゃ、見捨てられるかもしれないんだよ。でもママは、全然パパのこと好きじゃないんだよ……他《ほか》にも男の人がたくさんいるもん……伊欧知ってるもん……こんなの変だよね……』
 ……思い出して、こっちがしょんぼりだ。ランドセルも背負ったことのない年で、なぜそんなことまで考えなければいけないんだ?
 かわいそうに、と素直に思う。あの様子では恋愛どころか、一生結婚だってままならないに違いない。就職《しゅうしょく》だって、できるかどうか――
「……根はいい子なのになあ……」
 いくら晚婚化が進んでいるといっても、本人があの潔癖症《けっぺきしょう》では、どうすることもできなさそうだ。一生独身のまま、伊欧《いお》は老いていくしかないのかもしれない。だとすれば、伊欧を養っていくのは、
「……俺《おれ》か。俺が一生養ってやるしかないなあ……」
 無事に医学部に進んで、医者になって、病院を継ぐ。そうすれば自分の妻子と一緒《いっしょ》に、独身の妹の一人ぐらい、簡単《かんたん》に一生食わせてやれるはずだ。多分《たぶん》一番|難《むずか》しいのは医学部進学のあたりだろうが、そこさえクリアしてしまえばなんとかなりそうな気がする。なにしろ自分は高浦家《たかうらけ》の御曹司《おんぞうし》なのだから。
「……その線《せん》で行くかあ……」
 ぼんやりとそう考えたその時、目蓋《まぶた》の裏に残っていたしょんぼり顔の小さい伊欧が、にっこりと顔を上げて微笑《ほほえ》みかけてくれた気がした。――その格好《かっこう》は、相変わらずの魔女《まじょ》ルックではあったけれど。
 と、ドアがノックされて意識《いしき》が引き戻される。どうせ住み込みの家政婦さんがゴミでも集めにきたのだろう、と、ベッドに寝たまま返事を返した。
「はい、どちらさん」
「ハァ~イ、起きてたぁ?」
 しかし、扉を開いたのはそんな生易《なまやさ》しいものではなかった。
 頭からつま先まで押し付けがましいほどのシャネルマークでギラギラ光らせた、外人モデルばりのド派手《はで》な長身。セクシーという言葉を辞書で引いたら、こんな挿絵《さしえ》が出てくるに違いない。
「お‘み.や.よ」
 有名ケーキ屋の箱をぶら下げて艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》みかけているその美女こそが、伊欧の母、麗子《れいこ》だった。

「真一《しんいち》くん、最近伊欧の相手してくれてるって聞いてさぁ、んも~ありがたくってぇ~。ほらこれも食べていいのよ」
「お、お言葉に甘えて」
 一階のリビングに場所を移し、麗子は皿に盛ったケーキを次から次へと高浦に勧めてくれる。
「あの子って気難しいでしょ~? 学校でも友達なんか一人もいないのよねぇ~。あ~んなところにこもっちゃってさあ、恨みがましいっていうか面倒《めんどう》くさいっていうか」
 あんたのせいだ、とはもちろん言わず、高浦は無言でケーキを頬張《ほおば》る。その傍《かたわ》らで麗子は香水の匂《にお》いを振りまきながら、とんでもないことを口にした。
「ま、理解できないわけじゃないのよぉ。あの子、昔のあたしにそっっっくり、なんだもん。あたしのママも愛人だったし、あたしもああやって一人で閉じこもって、『人間なんか汚《けが》らわしい、生殖なんて気色悪い』ってヒステリー起こして、金枝篇《きんしへん》だのなんだのって変な本にのめりこんでたものよぉ~」
「……」
 ボタリ、とフォークの先端からイチゴが落ちて、磨き抜かれたフローリングの床に転がった。
「いつかはあの子も『悩んでる暇があったら、こんな親から独立できるようにパパを探そう』って気が付くとは思うけど、思春期のうちは仕方ないのよねぇ。でも、真一《しんいち》くんみたいなお兄ちゃんがいれば安心だわぁ~……くっくっくっくっ」
 ちょっと待った。心中で呟《つぶや》きつつ、高浦《たかうら》は細い目をさらに細めて必死に考える。つまり、ええと、つまり……
「……この魔女《まじょ》は、あの魔女の、進化型……?」
 半ば呆然《ぼうぜん》としつつ、ソファにどっかりと腰掛けているブランド貴金属で人間電球状態の麗子《れいこ》を見やる。その華やかな面差《おもざ》しは、確《たし》かに伊欧《いお》によく似ている。くっきりとした大きな瞳《ひとみ》も、ほっそり通った鼻梁《びりょう》の線《せん》も――呪《のろ》いの言葉を吐きすぎたせいか、頑《かたく》なに歪《ゆが》んだ薄《うす》い唇も。
「ひえええええっ!」
 ――震《ふる》え上がったその時だ。視界の端を通り過ぎた小柄で真っ黒なあの影《かげ》は。
「い、伊欧!」
 食べ物でも漁《あさ》りに来たのだろう、めったに母屋へは現れない伊欧の姿に間違いなかった。この偶然もめぐりあわせ、いや、天啓だ。ソファから立って廊下を走り、
「……なに、お兄ちゃん」
 明るい照明の下では年相応に幼く見える妹の肩を掴《つか》まえていた。そのまま麗子に声が聞こえないよう、廊下の端へ伊欧を押しやる。
「あのな、伊欧。いきなりだがよくお聞き。やっぱりこんなんじゃいけない。人間は普通に幸せにならないといけない。普通に恋愛|経験《けいけん》を積《つ》み、普通に男女交際をし、普通の大人《おとな》にならなければいけないんだよ」
「……はあ? なにを言っているの?」
 血走りすぎて鬼気迫る目をして、高浦は魔女の進化を未然に食い止めようとしているのだった。あんなのが幸せなわけはない。いや、麗子は幸せかもしれないが――自分の妹に見せたい未来ではないぞ!
「いいか伊欧、俺《おれ》は女子と交際するっ! いや、したいっ! 淫《みだ》らだろうが低俗だろうが、それも人間の一面なんだっ!」
「な……なんですって……? じゃあ、じゃあ一生ともに清らかでいるって決めたあの誓いは!?」
「破棄させてください」
 あわわわわわわ、と、伊欧の口がかっぱりと大きく開いていく。兄の裏切りを知ったのだ。心を開いていたぶんだけショックも大きかったのだろう、小さな魔女はへたへたとその場に座りこむと、裏切り者に震《ふる》える指を突きつけ、
「ふ、」
 叫んだ。
「ふ.け.つ.よぉぉーっ! 裏切り者-っ! 一生|呪《のろ》われろーっ! 貴様に一生異性に縁《えん》がなくなる呪いをかけてくれるぅぅぅっ! ……うわーんお兄ちゃんのばかー!」
 盛大に泣きながら履《は》いていたスリッパの片方をまず高浦《たかうら》に投げつけて、顔面にぶち当たったのを見届けてから、伊欧《いお》は一気に廊下を走りだす。
「あら伊欧? ケーキ食べるぅ?」
「お兄ちゃんになに吹き込んだこの因業《いんごう》ババアーッ! 性病で朽《く》ち果てろっ!」
「あいたっ!」
 もう片方は麗子《れいこ》に投げつけ、靴も履かずに玄関から飛びだした。行き先はどうせ鉄条網の離《はな》れだろうが、高浦は懸命《けんめい》にその後を追う。
「伊欧! 靴をはかんと足の裏がーっ!」

 ――だって、お兄ちゃんなのだ。腹違いだろうがなんだろうが、伊欧は自分の妹なのだ。小さな時から見守ってきた、誰《だれ》より大事な女の子なのだ。不吉な呪いをかけられたって、伊欧の幸せを祈らずにはいられない。
 だから、高浦は決めた。
 伊欧の呪いに打ち勝って、自分が恋愛勝ち組になって、そして幸せになった立派な兄の姿を見せて――伊欧を更生させてみせる。だからこれが、第一步だ。
「よし、できた」
 伊欧に追い返され、すごすごと戻ってきた自室。高浦は自分のクラスの連絡網に、引くべき線《せん》の最後の一本を引き終えた。これこそがここ数日間、伊欧に協力してもらって作り上げた、三年B組の恋愛関係相関図だった。関係のある男女の名前を黒い線で結びつけ、誰と誰がどんな関係にあるのかを一目で見られるようになっている。
 そう、今三年B組には、ちょっとした告白ブームが起きているのだ。線は日々増え、また入れ替わり、それ自体が生き物のように、有機的《ゆうきてき》な変化を見せている。
「……この仲間に、入ってやるんだ」
 恋愛関係相関図を強く握《にぎ》り締《し》め、高浦は一人ごちた。この有機的変化の中に、まずは自分も組みこまれること。それが伊欧を更生させる、長い道のりの第一步となる。

     ***

 休み時間にざわめく教室。どこか浮き足立って見えるクラスメート達を眺め、高浦はこっそりと息をついた。ここは思春期のガキどもの檻《おり》。桃色《ももいろ》に空気がけぶっていても、これが当たり前のことなのだ。
 親友の田村《たむら》は考え事でもあるのか、椅子《いす》に座ったまま頬杖《ほおづえ》を突き、窓の向こうをぼーっと見ている。多分《たぶん》こいつも鈍感だから、この桃色に気づいてもいるまい。
 さあ、一步目を踏みだそうか。高浦《たかうら》はなんでもないふうに、いつもの調子《ちょうし》で田村の肩を軽く小突《こづ》いた。
「なあ田村。ここでクイズです。今は一体、どんな時でしょう?」
[#改ページ]
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 あとがき

 いきなりですがまずは一つ、なにも考えずにこんな小話を聞いてください。

 うんとうんと昔――それはまだ人間が、言語というものを今ほど流暢《りゅうちょう》には操《あやつ》れなかった時代。「始まりの人間」達の時代です。とある一人の人間が、狩りの途中、毒ヘビに噛《か》まれてしまいました。そこに通りかかったもう一人の人間。
「ウホ?」(どないしたんや自分)
「ホッホッホ!」(ヘビに噛まれてしまってん! 頭、三角やった! あれ毒やで! どうしよ!)
「ホーッホッホ」(俺、毒消しの薬、偶然持ってんねんけど)
「ホ!? ホワッホワッホワ、ホホ、ホホ」(マジ!? 頼むわー、それちょっとここに塗って!! ここ、ここ!)
「ウホー、ホホホホホ……ホウダ」(うーん、でもこれ貴重やし……そうだ)
 苦しんでいる一人の人間を前に、もう一人の人間は「ウホッ」と小さく笑いました。その瞬間《しゅんかん》、彼の脳みそに奇跡的な電流が稲妻《いなずま》の如《ごと》く走り抜け、言語野を燃《も》やし尽くす勢いで強い刺激《しげき》を与えました。それはまさに、人間っぽい猿から猿っぽい人間へ、華麗《かれい》なる進化の瞬間でした。
「ホれがホしいなら、ホれの言うことホ聞け。もしもずっと未来の世界でホれの子孫がラブコメを書きたくなったら、ホまえの子孫がそれを文庫にして出版する、って約束ホするなら、ホれホくれてやってもいい」
 目の前にぶら下げられた薬に、毒ヘビに噛まれた人間は、ゆっくりと手を伸ばしました。彼は思っていたのです。遠い未来の約束ホ、いつかきっと自分の子孫が叶《かな》えてくれるホとだろう、と……。

 ――前置きが長くなりましたが、初めまして、竹宮《たけみや》ゆゆホです。ちなみにこの小話の意味は特にありません。忘れてください。(我《わ》が家に伝わる古文書《こもんじょ》をクルクルと巻いて仏壇《ぶつだん》に戻し……)
 この『わたしたちの田村《たむら》くん』は、剣も魔法《まほう》もお姫様も超能力もスタンドも、一切出てこない地味なお話です。地味なりに、続きが出ます。私が編集部《へんしゅうぶ》におわす神々に対して不興《ふきょう》を買うような真似《まね》をしなければ、の話ですが……もしも万が一の事態が起きれば、我が家に代々伝わる幸運の毒蛇を、なにかに用いてみるつもりです。
 地味なお話に素晴《すば》らしい彩りを与えてくださるヤスさん、いつも私の腹の具合を心配してくださる担当さま、そしてなにより、今これを読んでくださっている読者の皆様、本当にどうもありがとうございました。もしも私が相撲取《すもうと》りならば、華麗な股割《またわ》りをして見せられたのに……! 股割りをお見せできないかわりに、次の巻で無事、お会いできることを祈っております。

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